「文化翻訳」理論って難しい・・・

アンソニー・ピムによって書かれた「『翻訳理論の探求』第八章 文化翻訳」では、「翻訳」を多義的な概念で使っている。そして、「文化翻訳」理論として、テクストとしての翻訳だけに焦点を置かず、翻訳を有限のテクストとはみなさないアプローチもありうるとして考察している。(p.237)つまりこれは「翻訳」でありながらも、等価によって関係が示される存在物がないことを意味している。こうなると翻訳の定義を専門的に規定することも、翻訳の対象を特定することも難しい。アンソニー・ピムは「文化翻訳」について同書の中で以下のようにまとめている。

「文化翻訳」とは起点が存在しない。通常、固定した目標テクストも存在しないプロセスとして理解することができる。焦点となるのは文化的プロセスであり、産出物ではない。文化翻訳を牽引する主要素は人(主体)の動きであり、テクストの動きではない。(p.237)

つまり、翻訳を異文化間コミュニケーションの一般活動として見るということだ。「異文化間」の出会い及び交流を「翻訳」と捉えて、「文化翻訳」という翻訳概念の新たな構築を行うということだ。ゆえにこの「文化翻訳」という概念は、ポストモダン社会学、ポストコロニアル理論、人口移動、文化的異種混淆性やそのほか多くの分野における問題の論考で使えるものとなっている。こうして「文化翻訳」を間口の広い概念として捉らえた。

アンソニー・ピムは同著の中の「文化翻訳」において、「翻訳」と言う概念をメタファーとして使って世の中の事象を説明している諸理論を検証し、それらが通常の意味での翻訳を論じる上でも有効かどうかを探っている。すなわち、「翻訳」の概念がメタファーとして使われる限り、そこには果てしない可能性を秘めることとなる。その可能性を追求するために、アンソニー・ピムは以下に挙げる様々な考えを取り上げながら、本来の意味での「翻訳」に「文化翻訳」の概念を照らし合わせることで、文化翻訳が翻訳へおける新たなパラダイムとなりうるという正当性を検証している。

まず彼は、インドのホミ・バーバの著書の「文化の場所」の中にある「新しさがいかに世界に登場するか」という章にある「文化翻訳」という概念が、どのように使われているか考察した。バーバはこの章に至るまで「翻訳」という言葉をメタファーとして何度も使っている。そして、イギリスの作家サルマン・ラシュディがムハンマドの生涯を題材に書いた小説『悪魔の詩』を例に出し、「文化翻訳という超越行為」(p.241)を説明し、ある種の異文化間文学は翻訳的でありうるという主張に、ある程度実体性を帯びさせた。

バーバが翻訳理論から抽出しているのは、翻訳における二項対立ではなく、「翻訳そのものは翻訳不可能である」という「翻訳不可能性」の概念(p.241)である。この概念こそが、バーバにとって、翻訳は二項対立であるというジレンマからの抜け道を示すものとなっており、翻訳メタファーあるいは一つの思考法として魅力的なものとなっている理由である。

さらにバーバは、人々の物理的動きの枠組みで翻訳を捉えると翻訳は既存の境界を超えるものだとした。(p.245)これらの動きは翻訳における「文化翻訳」以外のパラダイムでは注目してこなかったので、この境界に対して「文化翻訳」を新たなパラダイムとすることで、翻訳が表わす境界の二面性という問題を強力に提起した。この問題はコミュニケーション技術が強力な役割を果たすという点においてすべて移動が発端になっているというわけではないが、社会がますます分断化され、文化の混合性が数多く起こっていることから生じている問題に深遠に関わっている。

前述したように「文化翻訳」理論の特徴としては、テクスト(書記言語および音声言語)としての翻訳だけに焦点を置かないということである。そして関心の対象は文化プロセス一般であり有限の言語的産出物ではないということである。これが「翻訳不在の翻訳」(p.248)を意味している。ヤーコブソンによると本来「翻訳」とは、

① 同一言語内の言い換えである言語内翻訳

② 異言語間の言い換えである言語間翻訳

③ 詩を音楽で解釈するような、異なる記号体系間での解釈を行う記号間翻訳

という三つの類型に分けられるが(p.250)、文化翻訳のパラダイムにおいても、これら三つの類型に分けられた「翻訳」を産出物ではなくプロセスだと定め、すべての言語使用を翻訳として見ることが可能であるという考えの土台となっている。

すなわち、これによる「メタファーとしての翻訳」は③の記号間翻訳ということであり、翻訳とは社会現象を分析しているということになる。ちなみに、その一部には同じく記号的翻訳となる特定の文化の意味を解釈し、それを他者へ伝える「文化翻訳」が含まれている。また、ある製品をそれが販売され使用される場に持ち込み言語的かつ文化的に適切なものにする「ローカリゼーション」は、言語面に着目すれば言語間翻訳、広く新たなロケールに向けた製品の準備と捉えれば記号間翻訳となりさらにその一部に含まれ、そして、翻訳者により元の言語での起点テクストをほかの言語で書かれた目標テクストに変える一般的な「翻訳」はさらにその一部となり、翻訳としてはかなりの狭義と言うこととなる。つまり、意味を解釈によって作る翻訳は、産出物でなくプロセスだと定めると、そのプロセスの形跡はほとんどどこにでも見出せ、全ての言語使用を翻訳として見ることが可能だということである。(p.249)

これを出発点として、イーヴン=ゾウハーは「翻訳を超えた翻訳」を提唱し、翻訳学の範疇を拡張しようとした。そして、全てのシステムは異質的かつ動的なので、「テクスト的モデル」は常に、あるシステムから別のシステムへ動いており、翻訳はそうした動きの一つに過ぎないということを提示した。転移と呼ぶこうした動きは、テクストだけでなく、主体である人の動きへと進展している。これによりテクストを基にした翻訳よりも広範なプロセスに視点を置く論考は、バーバより前から存在していたということになる。

 また、「文化翻訳」という言葉は翻訳学から発展したわけではなく、民族学ないし社会人類学により生まれ、根本的には文化を翻訳するという意味である。すなわちそれは、文化的異種混淆性や越境の問題の論考と緊密に絡んできている翻訳学的「文化翻訳」とは同一視できない。

また翻訳は、社会的関係の基本的な構成要素になっているので、翻訳は社会学の構成要素にもなっており、社会的関係が形成されるプロセスとなっている。(p.258)さらに、精神分析においても、翻訳は空間的な力の動きであり、それによって境界が成立するようなものだという、文字通りの意味ではない翻訳という言葉が使われる。(p.261)こうした様々な枠組みの中での「翻訳」という言葉は、メタファー的に使われている例が尽きない。社会人類学などによるメタファーとしての「文化翻訳」の考え方の典型は、文化自体を解釈可能なテクストと見立て、それを言語テクストによって記述・説明、また、解釈を解釈して記述するということである。

すなわちこうしてメタファー的に使う「翻訳」は、ある経験の領域(翻訳者がすること)から数多くの他の領域(異文化の相互関係)へ思考をめぐらし、多くの意味を持つようになっている。(p.264)アンソニー・ピムはこう主張する。

何か新しいものが翻訳の世界に入ってきたとするとそれはおそらく移住やコミュニケーション様式の変化からくるもので、言語や文化を個々に分けることがもはや想定できないほどである。等価理論を成立させた基本的な諸領域はもはや存在しない。こうして、文化翻訳は、現代世界における翻訳の多くの状況に関する思考方法を提供するかもしれない。(p.269)

文化翻訳には、社会コンテクストに照らして翻訳を理解する新たな道筋を開き、そこには十分意義のある長所があると判断できる。しかしこのパラダイムが等価の批判を提供できないとなると、翻訳理論としての機能を失い、単なる「異文化間研究」と呼ぶに値するものとなってしまう。こうしてアンソニー・ピムは翻訳理論における「文化翻訳」パラダイムの研究は、グローバル化が進む世界でリスクにさらされた価値観や恩恵とはどのようなものなのかについて多くを語っているとあとがきの章において締めくくっている。(p.274)

参考文献

アンソニー・ピム著 武田珂代子訳『翻訳理論の探求』みすず書房(2010)

河原清志『翻訳通信―翻訳とは何か―研究としての翻訳 文化翻訳論』






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