「文化翻訳」について考えてみた

文化翻訳をインターネットで検索すると、その意味を忠実に解説してくれるサイトは皆無であった。それだけでなく、文化翻訳という用語が一般的には日本語には存在していないようであり、未だ解釈されていないことがそこから読み取れた。その中で一番興味を引いたのは、「シャルリー・エブド」誌襲撃事件に関するサイトであった。このサイトによれば、フランスと日本のメディアにおいて、この事件への反応や解釈が両国で全く異なっているということであった。フランスの場合は「シャルリー・エブド」の編集方針に賛成でない人、あるいは同紙を読んだことがない人でもほぼ全員が同紙への抗議の手段として殺人という最大の暴力が使われたことに激しい怒りを覚えているのに対して、日本の場合には「テロは良くないが」というただし書き付きで「でも表現の自由と騒ぐのは西欧中心主義ではないか。表現の自由にも、他者との尊厳という制限が設けられるべきでは」と表明することが少なからず存在していた、と書いてある。(関口京子『SYNODOS国際2015.1.14』以下の引用もすべて同様)

さらにそのサイトによると、2015年1月13日付読売新聞の夕刊の国際欄の記事では、襲撃事件後初めて発行される「シャルリー・エブド」最新号の表紙のデッサンに以下のように触れた(AFP通信を始め、他の幾つかの日本のメディアにも、「ムハンマドへの風刺も許されるという意味と見られる」とあった)。

最新号の表紙には、ムハンマドとされる男性が、泣きながら『ジュ・スイ・シャルリー(私はシャルリー)』との標語を掲げる風刺画が描かれている。この標語は、仏国民が事件後、表現の自由を訴えるスローガンとして使った。表紙には、ムハンマドのターバンの色とされ、イスラム教徒が神聖視する緑色を使った。また、『すべては許される』との見出しも付け、ムハンマドの風刺も『表現の自由』の枠内との見解を訴えたと見られる。

著者の名を提示して書かれているそのサイトによれば、この記事には多くの事実誤認が見られるという。緑色に関する記述やムハンマドの表象自体に関する記述についてである。それだけではなくさらなる問題として、翻訳における誤訳を上げている。

  「Tout est pardonné」を「すべては許される」とした訳は「言論の自由」を示したものだとしているが、全く逆の意味だ。~(中略)~Pardonné は宗教の罪の「赦し」に由来する、もっと重い言葉だ。そして、pardonnéは、過去に為された過ちを赦すことを意味する。「Tout est pardonné」は、直訳すれば「すべてを赦した」になる。しかしこれは同時に、口語の慣用句であり、日本語で一番近い意味合いを探せば、たとえば、放蕩息子の帰還で親が言うだろう言葉、「そのことについてはもう咎めないよ」、または、あるカップルが、深刻な関係の危機に陥り、長い間の不仲の後、最後に「いろいろあったけどもう忘れよう」という表現になるだろう。これは、ただの喧嘩の後の仲直りの言葉ではない。長い間の不和があり、それは実際には忘れられることも、許されることも出来ないかもしれない。割れた壺は戻らないかもしれない。それでも、この件については、終わったこととしようではないか、そうして、お互いに辛いけれども、新しい関係に移ろうという、「和解」「水に流す」というきれいごとの表現では表しきれない、深いニュアンスがこの言葉には含まれている。この文章は、預言者ムハンマドが言ったとも取れるし、「シャルリー・エブド」誌側の言葉とも取れる。つまり、複数の解釈を許しているのだ。ムハンマドが言ったとすれば、それは、「君たちの風刺・または思想をもわたしは寛容に受け止めよう」ということであり、「シャルリー・エブド」誌の側としては、「わたしたちの仲間は死んだ。でも、これを憎悪の元にするのではなく、前に進んでいかなければならない」ということを意味するだろう。

サイトの著者はこう記述した後で、読売新聞の記者は、この表紙の挿絵に「自分が読みたいことを読んだ」のかもしれないとまとめ、多様性の消失を嘆いていた。そして表紙の挿絵の漫画から作者の伝えたいメッセージの本質を読み解き、以下のように続けている。

「シャルリー・エブド」誌襲撃事件は、文化翻訳に関する多くの問題を結果的に提起している。イメージが、文化を越えてどのように読まれていく(=翻訳される)のかという問題もあるし、「自由」の概念の翻訳問題もある。読売新聞の記事が、「Tout est pardonné」を「すべては許される」と訳してしまった背景には、「リベルテ(自由)」という概念が、近代、日本語に翻訳される際に、 「勝手」と同義と捉えられていたという状況も思い起こさせられる。

このサイトにより私は、「翻訳理論の探求」第八章 文化翻訳に記されている、バーバが文化翻訳を翻訳における新しいパラダイムと理論づけるにあたり、ラシュディが書いた『悪魔の詩』により、各国の翻訳者がこの小説に関わるファトワの矢面になったにもかかわらず、この小説自体を神への冒涜行為の翻訳として見ることの方に関心を寄せ、ファトワを引き起こしたのはこの小説が神聖なものを俗悪なものに暗示的に翻訳したためだと主張したこととの類似性を思った。内容がイスラム教だからということでは全くない。「シャルリー・エブド」の表紙絵に関して、表紙のフランス人作者の意図を深く汲まずして日本語にイメージを先行させて翻訳してしまった事実に関して、である。このイメージを翻訳するということが、特定の起点テクストや特定の目標テクストも持っておらず、ただ解釈を認識することによってのみ文化翻訳の対象が「非実質的な翻訳」であると考える。

 襲撃事件後発売された「シャルリー・エブド」誌は25ヶ国で発売され複数の言語に翻訳された。我々も日本語のみに頼ることで、思考が拘束され、自分の知識や志向が狭められてないか改めて考えながら、不用意な翻訳により新たな誤解が生じないように文化翻訳を意識しなければならない。こんな時代に生きているからこそ、文化翻訳という考え方は起点と目標が成立しないようなグローバル化の進む世界を考える上で役立つはずであると期待したい。

参考文献

アンソニー・ピム著 武田珂代子訳『翻訳理論の探求』みすず書房(2010)

関口京子SYNODOS国際『「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題』2015.1.14版




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