戦時下と占領下という異なる検閲の時代の映画監督・川島雄三について その2

その1途中からの続き。


GHQの事前検閲は1949年10月まで続き、11月からは「映倫マーク」が登場し言論統制は一応の終わりを見せる。そして、1950年代はレッドパージへと向かって行く。川島はこの頃、自分の所属する松竹映画の商業主義にうんざりするかの如く、松竹から日活に1955年に移って移籍第一作『愛のお荷物』を監督する。

この映画も世相を切り取った内容で、社会問題となっている日本の急激な人口増加をシニカルに描いている。今や高齢化社会と出生率の低さが社会問題となって居る今とは隔世ではあるが、戦後ベビーブーム直後の当時としては深刻な社会問題だったはずであり、映画の中に当時の政府や国際情勢を批判するセリフがいくつとなく出てくる。それは防衛庁の発足であったり、水爆の実験であったり、アメリカが推し進めてきた政策も多い。ここにきてようやく、表現の自由を謳歌しているかのようである。さらに妊娠がテーマだが、全く下品には描かれず、ドタバタコメディーにならず艶笑で、各出演者もテンポよく動き回り、川島監督の上手さが際立っていると思う。

そしてこの後には、川島監督にとって代表作と言われる『洲崎パラダイス・赤信号』(1956)『幕末太陽伝』(1957)そしてさらに東宝に移って『暖簾』(1958)『グラマ島の誘惑』(1959)などを世に出していく。

こうしてGHQの検閲が終わったこの時期でも、川島の映画作りの精神は変わらなかった。昭和33年に施行される売春防止法が可決され、アメリカ並みの清潔な社会を目指し町中から不潔なもの不道徳なものが一切目につかないように隠し込まれるようになると、『洲崎パラダイス・赤信号』では赤線地帯を舞台に、そこでしか生きられない人々を描き、主人公たちがそこからの積極的逃避をおこなうラストシーンを描いている。

また、1956年に石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』で太陽族がブームとなり、不良のイメージ付きまとう太陽族が世間の非難を受けると、映倫の役目が強化される中でその手の路線の映画制作を自粛せざるをえなくなっていくにもかかわらず、川島は舞台を時代劇に借りて江戸時代の太陽族を描く。それが、まさに積極的逃避がテーマだと謳った映画『幕末太陽伝』であり、彼の世間一般で言われている代表作でもある。

そして『暖簾』では、GHQの検閲があれば引っかかっていた封建制度の象徴である「主人公が意中の人と結婚ができない」戦前の状況や、軍国主義の象徴である「主人公が皇国の士として万歳をして戦地に送り出した息子を亡くす」戦中の状況を描いた。ここでも川島は、戦前から戦後へ忍耐を強いられながらも生きた主人公の人生の悲劇を「喜劇」として描いている。

『栄光なき天才たち―川島雄三―』によると「川島は、今までの日本映画の基本「ヒューマニズム」なるものを拒否した。」という。当時、表現においてもGHQの検閲後、反軍国主義と民主化政策が上手くいき、同紙によれば日本映画は「戦争反対が金科玉条の戦後日本では『二十四の瞳』に代表されるようなヒューマニズムが最高とされていた。」とある。しかし彼はあえて棘の道を選択し、表現に挑戦していたと思えてならい。

だがこれまでの検閲が、彼の表現を苦しめていたとわかるコメントも『グラマ島の誘惑』を監督した昭和34年1月発売の『キネマ旬報』臨時増刊号に寄せている。

この雑誌を書いている今日は昭和33年の11月5日で、ちょうど前日常軌を逸した手段で国会の抜き打ち会期延長が強行されたのに対して、警職法反対の抗議闘争が4百万のデモ隊を動員して一層硬化する様子だし、一方注目の松川事件は、最高裁で上告審の第一回口頭弁論が開かれたところだ。そうした反面、新聞に出ない巷の噂さとして、またぞろ皇太子のロマンスが好奇の対象にされているわけだが、真偽はともかく、こうした華やかなるべき話題が、かつての流言蜚語の一時期を思わせるように、物陰ではひそひそ語りつたえられていることに、なんやら警職法問題などの持っている暗い雰囲気と関係があるものがあるような気さえしてくる。大げさだと笑われそうだが、今度の作品の内容なども、単に皇族と慰安婦を扱っているというだけの理湯で制限をうけるような時代がやって気はしないだろうか?すでにこの仕事をはじめてからでも、息苦しい圧迫をうけるような気配をかんじさせられることがあったように思える。

GHQの検閲が終わりおよそ10年経とうとしているのに、川島は表現の自由を奪われることを怯えている。それでも、川島はこの題材を選び、映画にした。川島のこの思いは、今の時代にも忍び寄る恐怖と同じに思えてならない。

ここまでの川島の作品群を観てくると、川島は喜劇と悲劇が同時に混在する作品を作ろうとしてきたと見て取れる。時代の世相を切り取りながら、そこに浮かびあがる悲劇を、喜劇を通して描いていると思えてならない。検閲の時代であろうとも、彼の表現したいものへの信念により、時代へ寄り添わない姿勢は、同じ表現者の端くれとしては心動かされる。小説家であり、作詞家でもあるなかにし礼が「あなたの仕事は、一言で言うとどういう仕事か?」と問われ、「公序良俗に泥を塗ることだ」と答えているが、まさに川島の映画への思いもこれと同じくしていたのではないかと考える。同じ側にいる人間としては、これぞ理想の仕事なのではないかと思えてならない。

こうした川島の物事を斜に構えた作品は戦中から戦後へと向かう中で、なかなか評価はされなかった。しかし、GHQのコンデから賞賛されたことからも、規制の多かった日本では一歩先を進んでいたとも言える。冒頭で述べた退屈よりも軽薄さを積極的に選び取る彼の映画へのアプローチは、積極的逃避という彼の一つのテーマと重なり、作品の中でアイロニーと諧謔を絶妙なバランスで共存させていると考える。

こうして時代によって映画で表現される内容は変わってきた。戦中、戦後それぞれの検閲下であっても、決して屈せず自分の道を模索した孤高の監督であった川島雄三。川島も時代によって苦しめられた映画人の1人であろうが、表現の検閲があろうとも、「表現とは、既成の価値を疑うところから始まるはずだ」ということを忘れなかった川島を見習いたく思う。

参考文献

川島雄三『花に嵐の映画もあるぞ』河出書房新社

平野共余子『天皇と接吻―アメリカ占領下の日本映画検閲―』草思社

『監督・川島雄三・松竹時代』ワイズ出版

今村昌平『サヨナラだけが人生だ』ノーベル書房

森田信吾『栄光なき天才たち―川島雄三―』集英社

磯田 勉『川島雄三乱調の美学』ワイズ出版

キネマ旬報 1959臨時増刊号 2011.12上旬号 他

山口瞳『追悼 上 川島雄三』論創社

藤本義一『川島雄三、サヨナラだけが人生だ』河出書房新社

香川京子『愛すればこそ』

参考映画

『還ってきた男』1944年松竹大船

『笑ふ宝船(藝能たから船)』1946年松竹大船

ニコニコ大会『追ひつ追はれつ』1946年松竹大船

『シミキンのオオ!市民諸君』1948年松竹大船

『シミキンのスポーツ王』1949年松竹大船

『愛のお荷物』1955年日活

『洲崎パラダイス・赤信号』1956年日活

『幕末太陽伝』1957年日活

『暖簾』1958年宝塚映画=東宝配給

『グラマ島の誘惑』1959年東京映画=東宝配給



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