戦時下と占領下という異なる検閲の時代の映画監督・川島雄三について その1

戦後、最初に接吻シーンを劇場公開させた日本映画とは、川島雄三監督のスラップス・コメディー『追いつ追われつ』であり(平野共余子『天皇と接吻―アメリカ占領下の日本映画検閲―』による。原題表記では『追ひつ追はれつ』)、公開日時は1946年1月24日である。4か月ほど遅れて公開された佐々木康監督の『はたちの青春』の接吻シーンにおいて劇場で歓声が上がったことが同じ著書の中に記述されていることから、それまでいかに接吻シーンが公の場で見られなかったに違いない。

この時代、すなわち第二次世界大戦後のGHQの占領期を振り返り、この川島監督と同時代の映画監督の新藤兼人は以下のように語っている。

   この時代のことを、狂瀾怒濤の時代というものもいる。まさにそうであった。映画は解放された混乱と現実の歩調定まらぬ足取りに大きく揺れた。何が何でも娯楽に徹しようとする記者、進歩的な民主主義的テーマに取り組もうとする作家たち、急造の身代わりで、テーマの観念ばかりが先ばしって浅薄な内容を露呈した作品、芸術至上主義を固執するもの、作家や俳優たちによる乱立する独立プロ、その興亡あわただしさ。独立プロは朝に起こり夕べに潰れた。しかし、混乱はしていたが活気に溢れていたともいえる。誰もが何かを突き破っていこうとする意欲に燃えていることはたしかだった。(『追放者たち』新藤兼人・岩波書店・1996)

しかし上記のごとく戦中の言論統制による軍の検閲から「解放された混乱」があったとは言うものの、1950年ごろまでは方向性は全く違うとはいえ言論の自由もGHQの支配下にあり、彼らの日本国民主化へ向けた政策により映画に対する検閲も結局続いていた。すなわち、真の意味での表現の自由は与えられてなかったのである。

このような時代において、日本で最初に接吻シーンを劇場公開させた川島雄三監督とは、大戦中、戦地に多くの映画人が出征していく中で、子供の頃より体が弱かったために戦地に赴くことから免れ、戦中に監督デビューしたという人物である。

彼は「軽薄か退屈以外のことなら何であろうと我慢できる。併しながら大多数の人々にとっては何れか一方に陥ることなくして他方を避けることは全く不可能である」というゲオルク・ジンメル『断想』一節を愛し、玉砕ムード一色に染まった戦時下において深刻ぶった世相に対して作家・織田作之助と「日本軽佻派」を名乗り(『キネマ旬報』2011.12限定!川島パラダイス)、1944年に、戦争に向けた国威発揚映画が跋扈し、軍の検閲が厳しい中、憲兵や警察の圧力に抗って『還ってきた男』を撮影し公開する。戦時中の作品とは思えないほど明るいコメディの佳作である。

川島は自著の中でこの映画に対する軍からの検閲に触れ、軍医が汽車の中で軍服姿のまま将棋を打つのを平服に改めさせられたなどがあったことを記し、「だいたいが軍国調の話じゃないから、彼らにしてみれば面白くなかったのだと思います。」と回想している。

またこの映画のロケ・ハンをしていたのはサイパンが落ち、東条が野に下った頃であり、長屋の露店を写真でとって居たら、そこに軍隊が多く駐屯していてためにスパイだと警察に引っぱられ、痛めつけられるなどの目にあったとも言っている。さらに、丘の上から大阪の街を一望に眺める俯瞰のシーンは許可が下りずに収録すらできなかったようだ。

このような時代に、あえて川島は、喜劇風に描かれた呑気な娯楽作を作り上げた。確かにこの映画を見ると、カメラが良く動き、音楽も明るい。だが、この国策映画とは一線を画したこの映画は川島の初監督作品ということもあってか、1944年8月『日本映画』第9号や1944年『映画評論』8月号では酷評を受ける。偶然の出会いを数多く描いているのだが、確かにこの偶然が面白く興味を引くようには撮られていないし、初演出時にやりがちな必要以上のカメラワークも目に余るところがある。

しかし、映画のことなど語っている場合ではなかっただろうこの時勢の作品では、制作体制が過酷だったに違いないことはうかがえるし、さらに川島自身にも収録時期に召集令状が届き一度は出身地である青森県下北半島に帰省させられるなど、映画に集中しきれない時期の作品である。かれはこの映画の目的を、帰還した兵士の目に映る日本の懐かしい風景、作者の織田作之助の書いた明るくその日常を楽しみながら生きている様を描きたかったと述べている。その点においては視聴者の心を掴めたと考えられる。映画の中で「増産のために工場に働きに行くなど」などのスローガン的なものも出てはくるが、出演者たちはスーツ姿が中心で戦時中の作品とは思えない。国策映画とは程遠い映画に仕上げた川島監督の、以降の代表作へ繋がる社会からの「積極的逃避」すなわちここでは検閲からの「積極的逃避」という思いが伝わってくる。

川島は大戦中にもう一本映画『笑ふ宝船』を撮る。が、これは外地の兵隊を楽しませるために制作された「恤兵映画」すなわち慰問用映画であった。当然この映画は国策映画であったが、川島は一般公開映画ではできなかったあるシーンを、あえて兵隊に見せるための映画だということで撮影する。それはレビューのシーンで、女の子が足を上げる場面である。国策映画だった故、終戦後には永い間お蔵入りとなるが、1946年にGHQの指導により国策部分を削り一般公開されるが当然この部分は削除されていない。22分の間にギャグを連続でつなげた映画で、頭を使わず楽に楽しめ、過酷な戦地にいる兵隊向けとしても、まだ終戦間もない時期の市民向けとしても頷ける。だが、ギャグの中には「人はなぜ死ぬのかしら」「あとがつかえているからです」という戦前にロングランを続けていた徳富蘆花原作の演劇『不如帰』のパロディを入れるなど、検閲に抵触するやり取りも収められており、川島監督の社会への抵抗の一端がここでも伺える。

そして、戦後第一作として、戦後最初の接吻シーンを公開した日本映画の『追ひつ追はれつ』を制作する。

ここまでの2作を作った川島監督の性質を見ると、一般的社会性から逸脱し明らかに何か新しいこと、形にはまらないことをやろうとしてきていると思えてならない。その流れが、戦後初の接吻シーンへと繋がったように思える。川島の自著によると『追ひつ追はれつ』の台本を総司令部に提出したら、GHQのデヴィッド・コンデが、キッス・シーンのところにサイドラインを引いてよこし、試写の時には「ビオンド・ビリーブ(信じられぬ!)」と言って握手してくれたと書いている。そして、そのラスト・リールダケわざわざもう一度上映したとある。この事実からも、『天皇と接吻』にも書かれているようにGHQが検閲したこれまでの日本映画の中からキスシーンが、西洋の退廃主義として排除されていて、映画の中で見られなかったことが伺える。そして、同著にもあるように、この4か月後に公開される『はたちの青春』の台本の検閲で、GHQのコンデがこの作品に接吻場面を入れるように要請したという内容へも繋がっている。日本の映画人にとっては、GHQの検閲が反封建主義と民主主義を推進しチャンバラ劇も復讐劇も許可が下りず、特に反社会的な行為に関してはダメダメづくしの中で、キスシーンの推奨は意外であったという。(『天皇と接吻』p.246)すなわち検閲下で自主規制していた日本映画人と違い、川島は、今までの西洋の退廃主義と映画での接吻表現は全く関係のなかったことだと主張するかのように、今まで日本の映画では表現できなかったことを自ら考え判断し、接吻は日本でも行われてきていたのだからと、当たり前であるかの如く表現したのだ。固定観念に縛られることを嫌う川島が、日本映画に新風を吹き込んだと言える。

こうした後、内容よりも接吻を売り物にした映画が多数作られるようになり、その接吻シーンを売りに作られた接吻映画についての意見が賛否両論沸き起こる。こうして接吻シーンに対して、表現や日本文化に対して未来志向の賛成派と日本古来の風習に馴染まないとする反対派に分かれた議論が自由闊達に行われるようになったということは、否定するだけでなく、接吻を例とする様々な表現の幅を広げていく事も担ったGHQの検閲も、当時の日本で民主化を早期実現させるためには必要であったに違いない。

 こうして、映画内で多くの観客が切望した接吻シーンは珍しくなくなっていく。すると逆に川島は、接吻シーンをむしろ積極的に取り入れなくなっていく。それが『シミキンのオオ!市民諸君』で見られる。この映画の中で主人公の男女が接吻しようとするシーンが2回ほど出てくるが、結局しないで終わっている。この映画は題名の通り、シミキンこと清水金一演じる主人公が、自分の住む男4人女1人しかいないナマズ島の住人に「市民諸君」と呼びかけ、投票でなんでも決めるなど、民主主義へ向かう当時の戦後社会を諷刺した作品である。川島はこの映画を、当時のコメディアンであるシミキンを役者に据えられたことで単なるドタバタコメディーにしないように注意を払ったと思われる。ワイズ出版の『監督・川島雄三・松竹時代』にはこの映画のGHQからの閲覧回答書の現物が印刷されているが、そこには反社会的な言い回しに関する2つのことと、民主的要素がなにもないという感想の合計3つのことしか書かれていない。だがこの映画は、日本の戦後のGHQによる高速な文明化を揶揄するかの如く、孤島をメタファーにして描いた佳作なのである。チャップリンでの映画も同様、メタファーにすることで喜劇から生まれるある批判を、川島はこの映画においてはGHQの検閲を掻い潜り、描いたということになる。

1948年の『キネマ旬報』12月号によれば、この作品を概ね好評としながらも、川島の全編に流れるニヒリズムに不健康さ感じるとしているが、ここまでの川島映画は一貫して、既成概念を壊し、何か新しいことを常に求めていた姿勢が随所にうかがえる所に、監督のカラーが生まれていると感じられる。しかしこの好評さからかこの次の『シミキンのスポーツ王』を監督するが、脚本の稚拙さゆえか、技術面で様々な試みをしているのみで終わってしまっている所は残念でならない。

 こうしてGHQの事前検閲は1949年10月まで続き、11月からは「映倫マーク」が登場し言論統制は一応の終わりを見せる。そして、1950年代はレッドパージへと向かって行く。川島はこの頃、自分の所属する松竹映画の商業主義にうんざりするかの如く、松竹から日活に1955年に移って移籍第一作『愛のお荷物』を監督する。

この映画も世相を切り取った内容で、社会問題となっている日本の急激な人口増加をシニカルに描いている。今や高齢化社会と出生率の低さが社会問題となって居る今とは隔世ではあるが、戦後ベビーブーム直後の当時としては深刻な社会問題だったはずであり、映画の中に当時の政府や国際情勢を批判するセリフがいくつとなく出てくる。それは防衛庁の発足であったり、水爆の実験であったり、アメリカが推し進めてきた政策も多い。ここにきてようやく、表現の自由を謳歌しているかのようである。さらに妊娠がテーマだが、全く下品には描かれず、ドタバタコメディーにならず艶笑で、各出演者もテンポよく動き回り、川島監督の上手さが際立っていると思う。

そしてこの後には、川島監督にとって代表作と言われる『洲崎パラダイス・赤信号』(1956)『幕末太陽伝』(1957)そしてさらに東宝に移って『暖簾』(1958)『グラマ島の誘惑』(1959)などを世に出していく。

その2へ続く




   

0コメント

  • 1000 / 1000