日本から見た欧米の移民排斥における差別と偏見と日本の立場を思う

1980年にフランスのパリで初演され、1985年にはブロードウェイで改訂され現在も世界中でロングラン公演されている『レ・ミゼラブル』というミュージカルがある。1862年にビクトル・ユーゴーが書いた同名小説を原作としているこのミュージカルは、ナポレオン1世没落直後の1815年からの33年間を描き、当時のフランスを取り巻く社会情勢や民衆の生活が描かれている。このミュージカルには様々な愛の形が描かれているが、同時に自由で平等な社会への希望も描かれている。1832年、フランス・パリでは1830年の七月革命によりブルボン朝が倒れたあと、ルイ・フィリップが王位に就き立憲君主制に移行するが、中流階級が潤う傍ら労働者は相変わらず言われなき抑圧と貧苦に喘いでいた。こうした不公正な社会を正し、自由で平等な社会の実現を目指す学生組織を中心に市民たちは革命を決意し、自滅覚悟で決行する。

フランス革命から始まるこれら歴史の流れは、フランス国民の心の糧となり、あのトリコロールの国旗を意味する、自由・平等・友愛の精神となって表れている。

しかし、パリの同時多発テロから一か月。そのフランスで移民の排斥などを上げる極右思想が目立ってきているとの報道が、日本でなされるようになり、各マスコミが批判の声を上げている。フランスでは女性であるマリーヌ・ルペン党首率いる「国民戦線(FN)」が支持を広げている。あのイラク戦争に最後まで反対したフランスで起こっているこの事実は、当然フランスに限ったことではない。特に中東からの難民が押し寄せる欧州全体でこれが顕著に現れ、極右勢力が支持を伸ばしている。ギリシャの「黄金の夜明け」、スイスの「国民党」、ノルウェーの「進歩党」、フィンランドの「真正フィンランド人党」など排外主義や反移民政策を上げる政党の台頭が目立つ。そして、アメリカではイスラム教徒の入国を禁止すると謳う共和党のトランプ氏の支持率が高騰していることに対する「憎悪をあおるだけだ」という懸念の声を報道している。さらに、この現象は欧米の国民の中に、移民や難民の流入に対し「税金を払っているのは自分たち」という不満が燻り、イスラム教徒への恐怖心がさらにそれを加速させているのだと伝え、こうした偏狭なナショナリズムは人類から寛容と融和の精神を奪い、対立と紛争を生むとの解説を加えている。

事実、こうした思想が支持を受ける中、現にフランスは国境を閉鎖。欧州諸国間の自由移動を認めたシェンゲン協定に基づき、廃止していた出入国管理を復活させてしまった。

確か、これまでの世界の歴史の流れは青木保の『「日本文化論」の変容』でも書かれているように、以下のようであったはずだ。

「20世紀、第一次世界大戦後の世界は、「民族自立」と「新国家」の出現をみた。旧い帝国は解体され、地域の独立が叫ばれた。多くの地域は独立し、新しい国家が出現した。第二次世界大戦後の植民地からの解放も、これに加速度を加え、世界は西欧中心の「文化」の「価値」と「独自性」の相対的認識は深まった。さらに1960年代後半から2大超大国の弱体化が徐々に進行して世界は文字通り「多元的」時代に入った。新しい国家は独自の「文化的アイデンティティー」の追求によって国づくりを行い。宗教や言語、生活様式などに含まれる独自の価値を主張してきた。西欧中心主義は、もはや過去のものとなり、日本の台頭もあって、世界をとらえる基本的な視点は、かつての西欧近代「絶対主義」から文化相対主義へと転換された。世界各地に存在する個々の分化は独自の自立した価値を有し、何人もそれを侵犯することは許されないとは、国連の理念の基礎にある考え方となっている。」

これまでのECからEU出現という西欧内部の動きは、必然的にいまある「国民国家」の弱体を招かざるをえないことにより行われてきたはずだ。国境が取り払われるのと同じく、シリア難民の受け入れなどを見ても、これまでのイギリス、フランス、イタリアといった「国家枠」が薄いものとなり各国が協調してきていたはずである。そうした動きの中で、ヨーロッパ各地の「地域性」がより重要な意味をおび、「民族・文化・地域」の「独自性」と個々の「価値」の尊重を認めなければやっていけないことを意味していたはずだ。

それを根底から崩し始めている。今のこの多元的な世界を認めず、排外的な態度をとる流れは、歴史に逆らっているとしか言いようがないのは事実である。

この排外的な態度を取り始めている欧米を、日本の報道は危惧し、批判的に取り扱っているのも当然である。しかし、この問題は決しても日本では対岸の火事ではない。こうした排外主義は、日本でも頻繁に見られるからだ。すなわち、日本の抱えている民族・文化における国際問題も同様の問題をはらんでおり、日本の自戒の念も込めて、自分の国で行われている政策と同時に語られるべき必要がある。

日本国内には今でも残る穢多である人々に対する差別や、第三国と揶揄するかのように隣国の人たちへの排斥が数多くあり、近年ですらもヘイトスピーチの団体が活動する。在日韓国人・朝鮮人排斥を掲げる「在日特権を許さない市民の会」のヘイトスピーチに象徴される嫌韓、嫌中の動きだ。彼らだけの問題ではない。出版界では売り上げが見込めると、いわゆる嫌韓本、嫌中本が書店に並ぶという、国民性を疑う惨状である。

国際人権団体アムネスティ・インターナショナルによると、世界の2014年の人権状況をまとめた報告書で、在日コリアンに対する「ヘイトスピーチ問題」などに言及し、「国際的な人権基準から乖離し続けている」と批判されている。

にもかかわらず、こうした指摘への日本政府への対応は鈍いのが現状である。民主党と社民党がヘイトスピーチなどを規制する法案を参院に共同提出したが、継続審議扱いとなり、安倍晋三首相はヘイトスピーチなどを規制する新規立法措置については「各党の検討や国民的な議論の深まりを踏まえて」と答弁しているというお粗末さである。

さらに日本は難民の受け入れについても及び腰である。すなわち、嫌韓、嫌中だけに限った話ではないのである。2014年に日本で難民申請をした人は5000人程いたが、このうち認定されたのは11人にすぎなかった。これは、日本人には次のような国民性がいまだに残っていることを表している。「日本人は、難民が国内にいた経験がほとんどないのに、外国人が増えることで日本の治安が悪くなるという勝手な被害者意識を持っている。」ヘイトスピーチに詳しいジャーナリスト安田浩一氏によると「欧米では、難民の受け入れによる多くの外国人労働者に雇用を奪われるなど立場を脅かされる場合もあるから排外主義も起こりやすい」ということなのだが、日本では言葉の壁などによりそういった状況は考えづらいにもかかわらず、上記した日本人の根拠のない被害者意識のような他者への排外主義は欧米以上と言っても過言ではない。中には欧州の移民政策の失敗を口にし、拒絶を強める向きもある。確かに欧州の各国首脳陣が移民政策に失敗の声を上げたことが報道されたが、それは財政的側面が大きく、若者たちの思想においては、移民受け入れに対して違和感を持たないなど、教育的側面では成功していることに対しての報道は一切されないなど、偏向報道すらされている。

こうした外国人に対する日本の非常識は、年老いた人になればなるほど未だに根強いのが事実だ。埼玉県の川口市では市議が議会で「市内の犬の登録数より外国人の方が多い」と発言するなど、意識レベルの低さを感じざるを得ない。日本には欧州のように極端な「右派」を標榜するような政党はないものの、欧州基準で言えば極右とみなされてもおかしくない排外主義的な言説をする政治家は少なくない。

排外主義の根底には間違いなく差別がある。差別とは偏見から生まれ、その差別の蔓延は対立と紛争しか生まない。排外主義を研究する徳島大学の樋口直人准教授は「日本が単一民族社会になることはありえない。中国などとの対立をあおることは国益を損ねるだけ」と協調を目指す方向性を打ち出している。さらに「自国民を守るため」と言った理屈を立てることで容易に行われる排外主義は、戦争も容易に始めやすくなるといった筋道は、誰が利いても理解しやすい。こうした排外主義は誰が聞いても「悪」であるのにいまだに日本でも起こっている問題なのである。

青木保の『「日本文化論」の変容』によると、1980年代後半から、世界の中心の一つとなった日本は、「閉じられた」政治経済システムと一元的な批判と非難を浴びた。それは、西側自由諸国の共通のルールに則っていなかったからであり、村社会的な要素が強固として残っていた協同組合要素が強い日本の経済システムは、「自由市場」を尊重しない態度を土台としていたからだ。そこには、日本人中心主義的な国家のエゴイズムがあった。欧米諸国と共通する「世界システム」を創り上げ、守ろうとする態度の逆を示していたからだ。

逆を言えば、欧米諸国のエゴイズムのあるシステムに組み込まれるべきではないということだ。すなわちこれからは、各国が国家のエゴイズムを排除した真の国際化のよる「世界システム」を、世界の国々の間でどう構築していくかを模索しながらも、実践していくべきなのである。

だが、いまや、欧米各国が自国のエゴイズムの殻に閉じこもるが如く様相を呈してきてはいないだろうか? 当然こうした排外主義に肯定されるべきところは寸分も見当たらない。

差別や偏見をする人は、外国人に限らず、病気の人や障害者など、さまざまな差別に加担する。それは他者を引きずりおろそうとする好戦的な社会となる。

差別と偏見は人類を分断し対立を生むことに他ならない。そしてそこに生まれる憎しみが憎しみを呼び、連鎖し社会秩序が崩壊していく。それを繰り返す人物こそテロリストなのである。威勢の良い言葉こそ疑う必要がある。

だからこそ人類の良識を信じ、人間として性善説であり続けたい。日本も決して排外主義を叫べるような社会を許す社会であってはならない。

 かつて夏目漱石が憂いたように、日本の開化は内発的に行われたものではなく、外発的に行われたものだ。明治期以降、江戸の時代まであった日本人の自負が、外発的な開化によって、アジアの繋がりから、欧州の繋がりへと変わったことによりアジアとの関係が歪められてしまったことは言うまでもない。日本人は内発的に行われたフランス革命から始まる、一連のフランスの歴史にもあこがれてきた。だからこそ、日本でも『レ・ミゼラブル』は容易に受け入れられたに違いない。

日本だけに限ったことではなく『レ・ミゼラブル』が世界的にヒットし、ロングランを続けているのには大きな意味がある。人類の良識に聴衆は気付き、そこに希望を感じているからだと信じたい。ミュージカル『レ・ミゼラブル』では自由で平等な社会の実現を目指す革命を決意した学生組織を中心とした市民たちはパリの貧民街にバリケードを築く。このバリケードの中で、政府軍の攻撃を待ち受ける市民が歌う歌に『Do You Hear the People Sing?(邦題は「民衆の歌」)』がある。現実には、圧倒的な力の差により市民の壊滅は予想できた。実際、バリケードに立て篭り果敢に戦った学生や労働者たちは殆どが政府軍の銃弾により命を落としてしまう。しかし、彼らは自由で平等な社会の実現の為に戦った。

自分も含め、この歌に心踊らされたこのミュージカルの世界中の多くの観客たちが、もう一度、今の社会を見つめなおすことを期待したい。

参考文献

青木保『「日本文化論」の変容~戦後日本の文化とアイデンティティー~』中公文庫

東京新聞

文芸春秋オピニオン『2014年の論点100』






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