メディア文化としての「羅生門」にみる日本映画の国際ビジネスを思う

 1997年に『羅生門』で旅法師役を演じた千秋実から、私の仕事場であり、且つ彼の遺作となった『極楽遊園地』の現場で黒澤映画についての話を聞いた。彼曰く、1951年にヴェネツィア映画祭で最高のグランプリを受賞した『羅生門』については、実のところ彼を含めた出演者は、台本に不可解なところが多く面白いと感じていなかったというのである。さらに映画としての仕上がりに関しても、千秋実が出演したそれまでの黒澤作品である『野良犬』や『醜聞』、その後に撮った『生きる』や『七人の侍』に比べ、羅生門のセットだけは確かに大きかったものの、全体のスケールという面では出演者も少なく、小さかったと感じていたと言う。さらにタイトルに関しては、内容的には『藪の中』であり、最後に『羅生門』で捨てられた赤子を発見することでドラマは動くが、その内容は原作とは違い解釈するのが難しかったと話してくれた。そして千秋実自身は羅生門のセットで撮影を行ったものの、主演を含めたドラマの軸となる三船敏郎、京マチ子、森雅之が演じた三人はセットの羅生門を見ることなく撮影は終了している。京マチ子に関して言うと、浜野保樹が記した『偽りの民主主義』の中にあるように、彼女の演じた真砂役は、黒澤は当初原節子を念頭においていたが、「どうしてもこの作品に出たかった彼女の積極的なアプローチによって覆した」となっている。この事実は,役者として売り出し中だった京マチ子が、『羅生門』以前の黒澤の評判により黒澤作品に出演したいと考えたと思われ、台本の内容によってこの役を切望したわけではないことを示している。

このように黒澤自身が台本の作成に関わっていたにもかかわらず、『羅生門』のストーリーが演じる側にすら難解で、「観客には間違いなく不可解に思われる」と考えたからこそ、黒澤は演出を大いに工夫する必要があり、大量の雨や、光の演出と言われている木漏れ日などの要素を多用することで『羅生門』という映画の全体像を作り上げたのではないかと考える。

これは、自分が監督をする時には当然のように行うことで、台本の内容に不安を覚える場合に、収録の段階で何かしらの技巧を考え、演出として多用していき、作品の仕上がりに保険をかけ、さらにそれを作品の売りにしていくのは良くあることだからだ。結果、『羅生門』の評価は内容に関してはあいまいで、ビジュルアルによるところが多い。この作品の評価をキネマ旬報社から創刊された『世界の映画作家・黒澤明の活躍』の章から引用する。

 この作品の意義はまずこの作品の映像の美しさにあったと考えられる。この原始的な暴力と性のドラマは、こもれ陽のさす森をそのふさわしい背景としている。(中略)さらに盗賊が捕らえられる河原や証言の場である検非違使庁の石庭風な様式美が展開している。(中略)この作品ほど証言の食い違いによる真実の多様さ、曖昧さにドラスティックに挑戦した作品はかつてなかったといえよう。それゆえに観客は個人的ビジョンをもって、このあいまいさに創造的に参加できる。戦後のフランスでアンドレ・バザンがロッセリーニ作品など映像の曖昧さ、多義性の中に観客の創造的参加を見出したように、私たちは「羅生門」のモンタージュがもたらす曖昧さ、多義性に自己ビジョンの創造的参加を見出すことができる。

 美とは抽象的価値観が強く、感性に頼るところが大きく観客にとっての感想は千差万別となる。さらにドラマ内容も多義性に富んでいることから、観客の創造性に任せるところが大きく解釈も千差万別となる。

この挑戦的な映画は、当時の日本人の観客が期待していた映画と大きくかけ離れていただろうことは想像に難くない。小林信彦が『黒澤明の時代』の中で言っているようにまさに『羅生門』とはアート・フィルムであり、日本の一般観客からは敬遠される傾向にあるのだ。

1950年に公開されたこの作品は、映画制作会社・大映の年間興行成績の第五位にはランクインされてはいるものの、評判は芳しくなかった。朝日新聞の昭和25年9月3日の映画欄では『「羅生門」の成功』と題し、同年8月26日に公開されたこの映画を「筋が簡単なことと、この筋の立体的なつみ重ね方が巧みなため最後までひきずられていく。芥川の作品の映画化は今回初めてでこのような企画は日本映画の一歩前進であろう。興行成績は山の手で非常によく、浅草は普通」と表しているが、これはそれまでの黒澤明の評判によって書かれたものだと推察できる。なぜならその年の12月15日の映画欄では、本年度の営業成績においては「当る」映画と「当らない」映画のとの開きが大きくなったと記し、日本映画の興行成績8位までを上げているが、その中には『羅生門』はない。さらに、公開本数の少ない外国映画が利益を上げていることを褒めつつ、日本映画の駄作を実名で10作程上げ「元もとれぬ愚作」とまとめた。その中で、評判が良かったのに興行が振るわなかった作品名もあげながら、日本映画の前途を嘆いているのだが、その中にも『羅生門』は登場しない。これは9月の新聞で褒めてしまったばっかりに『羅生門』に触れることができなかったからに違いない。すなわち、黒澤明映画としては予想外に興行が失敗し、評判も良くなかったことを意味していると考える。だからこそ、映画評論家で彼と親交のあった淀川長治は『淀川長治、黒澤明を語る』の中にあるように、『羅生門』の評判と違えて、黒澤の前でしきりにそれを褒めたのだろう。また、『キネマ旬報セレクション 黒澤明』の中で黒澤自身が『羅生門』を批評するにあたり、ヴェネツィア映画祭でグランプリを獲得したことを「まぐれ当たり」と言われた旨のことを書いているところからも、映画自体の評判は日本人からは得られなかったことがわかる。

事実、この映画を何の先入観もなく観た時、現代人も含め一体どれほどの人が面白いと感じ、さらにはどれほどの人が「もう一度観たい」と思うリピーターになりうる可能性があるだろうか? それは落合信彦が「浅草の封切館は、黒澤映画らしくなくガラガラであった」と書いているように、当時は実際にうけていない。なぜなら、映画上重要となるドラマは混沌とし、ストーリーは遅々として進まず、同じロケ場所が多用され絵替わりも乏しく、感想と言えば木漏れ日が眩しくきれいだったと言う「一度観れば十分伝わるもの」でしかないからだ。当時の映画は、現代のようにDVDなどで観られることを想定して作られることはない。すなわち、観客は基本的には劇場で一度しか観ない。そこでの評価がすべてであったはずだ。さらに黒澤自身も『偽りの民主主義・第六章『羅生門』と黒澤明』にあるように、火事による音声フィルムの焼失などの一大事も含め、この映画のポスプロも含めた映画全体の仕上がりに、及第点しか与えていなかったのでないかと考える。こう考えると、スタッフ、出演者、ましてや観客一同、誰もヴェネツィア映画祭でグランプリをとるなどとは思っていなかったことは頷ける。

しかし、引用にもあるようにフランス映画では使われていた作風のこの『羅生門』という作品が、日本人とは違った感性の持ち主である欧米人らによって偶然にも評価された。このことが『羅生門』という作品が日本映画において重要な位置に位置づけされる契機となった理由であり、まさに日本映画にとっては分岐点となった作品なのである。

黒澤明が記した『蝦蟇の油 自伝のようなもの』の第6章の中にあるように、黒澤にこのグランプリ受賞が届いたのは、彼が川に釣りに出かけているときであり、家に帰ってから妻によって知らされたというのは有名な話であるが、現代においては考えにくい。これは『羅生門』が日本映画において国際的な評価をえた第一号となる作品だからである。これにより日本人観客のみが対象であった映画作りに、海外にも目を向けて作る意味が加わり、賞を獲得することによってさらなるビジネスチャンスの可能性を得られることがわかった。まさしく日本映画において、この功績は大きい。グランプリ受賞後、日本国内での観客動員も増えた。これは、海外映画祭のグランプリ受賞という当時の日本人にとっての明るい結果と海外から評価されたことにより、これまで観てこなかった人が劇場に足を運んだ結果だろう。

間違いなく『羅生門』はヴェネツィア国際映画祭に出品されてなかったら世間から埋もれてしまったはずである。この作品が『淀川長治 黒澤明を語る』の中や、多くの場所で黒澤自身が語っているように「偶然にも1人のイタリア人の熱意によって映画祭への参加が実現した」という黒澤にとっても感謝すべき事象は、奇跡だったと言わざるを得ない。その結果、『羅生門』が、日本映画のオリジナリティーが海外へ知られる最初の作品となったという事実こそが、この映画の日本映画の歴史における評価において、一番に価値あるものと考えられる。

こうして田中純一郎の『日本映画の発達史Ⅴ・第19節日本記録映画の系譜・日本映画の海外受賞』や『世界の映画作家・黒澤明の活躍』の章の中にもあるように、この「羅生門」のヴェネツィア映画祭ブランプリ受賞は、日本映画が国際的な場に登場するきっかけを作り、海外ビジネスの門戸を開いた。キネマ旬報映画総合研究所によると1951年当時は全国の映画館数は3693館で現在とほぼ一緒だが、全国の入場者数は7億人以上と現在の4倍以上あり映画は娯楽の圧倒的な主導権を握っていた。さらに1951年の日本映画の公開数は208本で配給収入は71億円、外国映画の公開数は206本で配給収入42億円に比べると日本映画の国内における人気は圧倒的で、以降しばらくは日本映画が盛んに作られていく。こうして、大量に生産されていく日本映画は、それ以降、年ごとに輸出の増産を増やし、ヴェネツィア映画祭以外にもカンヌ、ベルリン、モスクワの映画祭で受賞するようになる。しかし、昭和33年をピークとして日本映画の大手邦画会社を中心とした繁栄は峠を越し、日本映画が半世紀をかけて開発育成した映像技術はそれを容易に受容できるテレビにとって変わられていく。それと平行するかのように「日本映画発達史Ⅴ」によると昭和40年度に入ると、日本映画は国際的評価が得られなくなり、受賞が皆無の状況となってしまう。

今や、映画産業を見ると、世界でも上位の市場がある日本では、この大きな市場があるからか韓国や中国、台湾に比べ、海外に出ていく事にあまり積極的ではない。しかしこの世界的にも大きいとされる国内市場も今後の拡大は全く期待できない。すなわち他の産業同様、映画産業も国際化が急務なのである。

映画は、文化・芸術であることは言うまでもない。文化・芸術という意味において言えば、日本固有の文化である映画を海外に発信することは、日本という国を世界に広く伝えることに繋がる。また文化・芸術であると同時に、映画はエンタテインメント・ビジネスとして成立させなければならない。ここ数年、香港・台湾・韓国・中国を中心にアジア発の大型映画が作られヒットするようになり、文化である映画がきちんと世界のビジネスとして成立していることを示している。それは「韓流」というブームによって韓国の文化が広くアジア、とりわけ中国に伝わったことからも理解できる。今や中国のテレビCMでは韓流スターが大変な人気であり、その結果、中国からアメリカに伝わり、ハリウッド映画でも頻繁に観られるようになっている。

しかし昭和40年以降日本映画は外国映画によってシェアを奪われ、「日本映画の発達史Ⅴ」によると昭和50年には配給収入は外国映画が56%となり日本映画との収入比率が逆転してしまう。以降現在に至るまで、日本映画はどんどんハリウッド的な作りを受け入れ、時代劇などの日本固有の文化を背負った作品を減らし、どんどん日本のオリジナリティーを失った作品を増やしていってしまう。

こうした日本産業の現状を見れば、国際化の取り組みは遅すぎる状況だ。しかし、日本映画産業にとって国際化はそれほど簡単なことでもないのも事実である。それはキネマ旬報映画総合研究所が分析しているように「日本映画界には長い歴史と伝統があり、そこから日本映画だけの独特な文化が生まれ、そこには自分たちの知識、技術に誇りをもつベテランの職人が多く存在してしまっている。そして、日本と言う地理的な環境から、外国と交流する機会が少なかった」という理由があげられる。こうしてお互いの文化や市場も含めた外国との相互理解が不足し、ハリウッドだけでないアジアも含めた国際化が妨げられている。

だが、今やこの相互理解が不足していることをチャンスとする時期であると考える。すなわち日本独自の文化を世界に正確に発信していくいいチャンスだととらえるべきだ。『羅生門』のように「日本国内では興行的には当たらないかもしれないが、海外では評価をえられる」その可能性を見いだしていくべきだ。日本でしか作れない作品を世界に発信していくべき時期に来ている。

日本では不評だった「羅生門」が1951年にヴェネツィア映画祭でグランプリを受賞した際に監督の黒澤はこう答えている。「日本人は、なぜ日本と言う存在に自信を持てないのだろう。なぜ、外国のものは尊重し、日本の物は卑下するのだろう。歌麿や北斎や写楽も、逆輸入されて、はじめて尊重されるようになったが、この見識のなさはどういうわけだろう。悲しい国民性と言うほかない」

「羅生門」は黒澤が「アキラ・クロサワ」として世界のひのき舞台で活躍する通用門となった。これは作品の時代背景も日本固有のものであっただけでなく、日本映画そのものが諸外国とは違った文化もあったに違いない。それを何も臆することなく、堂々と示せた機会を偶然にも得られたのが「羅生門」なのである。

これからの日本映画において「羅生門」とはそのチャンスを我々に提示した絶好の作品となっている。

参考文献

北野圭介「日本映画はアメリカでどう見られてきたか」平凡社新書

黒澤明「蝦蟇の油 自伝のようなもの」岩波現代文庫

田中純一郎「日本映画発達史Ⅲ」中央公論社

田中純一郎「日本映画発達史Ⅳ」中央公論社

田中純一郎「日本映画発達史Ⅴ」中央公論社

「世界の映画作家31夏の号 日本映画史」キネマ旬報社

「日本映画の国際ビジネス」キネマ旬報社

「キネマ旬報セレクション 黒澤明」キネマ旬報社

浜野保樹「偽りの民主主義~GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史~」角川書店

淀川長治「淀川長治、黒澤明を語る」河出書房新社

小林信彦「黒澤明という時代」文芸春秋

都筑政昭「黒澤明の遺言」







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