デイヴィッド・ダムロッシュの「世界文学」の観点から考える日本のドラマや映画コンテンツの国際ビジネス

 「世界文学とは何か?」という問いに対し、「世界文学には作品の起点文化に加え受け入れ国の文化的価値観とそれに対するニーズが、絶えずかかわっている」と考えた。要するに、「原文と受容国との間に起こる相互の解釈の違いを必然として受け入れ、両者間の相互の文化理解を行うことこそが重要である」と言うことである。これを自分の研究に関する日本の映像コンテンツの世界発信と関連付けて考察してみたいと思う。

それに関してまず重きを置くのは、受容先を意識するということである。世界文学においては、様々な形で受容先の社会への同化を目指す翻訳の存在を否定できない。これを示すためにデイヴィッド・ダムロッシュは『世界文学とは何か?』の「生産」カテゴリーにある第7章「世界の中の英語」の中で、彼はイギリスの作家ウッドハウスのことを記した。ウッドハウスは、同じ英語を使うアメリカとイギリスですらも、同じ受容のされ方がなされないことを意識し、アメリカのことについての書物にもかかわらず、イギリスという受容先を意識して書いた。ウッドハウスはこうした文化に対する複眼的視野を持ち合わせ、国際的成功を収めている。そしてダムロッシュは、「世界文学は翻訳と密接に関連しているが、世界に話者が広く分布する単一原語―アラビア語、スペイン語、フランス語など―において作品が文化の垣根を超えて流通するときにも、世界文学を見出すことができる」と主張している。「翻訳は世界に流通するためのさらなる段階にすぎない」と考えるダムロッシュは「ウッドハウスは勢いを増しつつあった英語のグローバリゼーションに参加していた」と記し、ウッドハウスが英語を使うアメリカ・イギリス両大国の経済と文化の一大転換点に立って執筆したことで、世界の富と交易路によって彼が世界文学への仲間入りを果たしたことを示している。この事例こそ、日本から発信するドラマ・映画コンテンツを国際化するにあたって重要であると考える。では、文学のように、映像コンテンツを国際化するとは何を意味し、具体的にどうすればよいのだろうか?

単に国際化と言っても、日本の映像コンテンツ産業については当然、ビジネスが前提とならなければならない。そうすることで、より一層文化的な意味での国際化にも繋がりやすくなると思われる。映画やドラマのコンテンツは、文化・芸術となりうる事実は言うまでもない。文化・芸術という意味において言えば、日本固有の文化である映画やドラマを海外に発信することは、日本という国を世界に広く伝えるということであり、俳優、監督の知名度も上昇させ、そこには次なるビジネスにつながるチャンスを広げられる可能性が秘められている。

だが、現在の日本における映画・ドラマにおける映像コンテンツ産業を見てみると、世界でも上位の市場が存在しているからか、日本にはこの大きな市場があるからか韓国や中国、台湾に比べ、日本の映画産業が海外に出ていく事に対して積極的とは言えない。さらには、この世界的にも大きいとされる国内市場も、今後の拡大は人口の減少にも伴い全く期待できないにもかかわらずだ。

戦後の日本において映像コンテンツは、日本映画という形で日本人の娯楽として定着し、文化として花開いた。しかし、昭和40年以降の日本映画は、テレビの普及も相まって、外国映画によってシェアを奪われ、田中純一郎の『日本映画の発達史Ⅴ』によると昭和50年には配給収入は外国映画が56%となり日本映画との収入比率が逆転してしまう。以降現在に至るまで、日本映画はハリウッド的な作風や制作の仕方を受け入れ、時代劇などの日本固有の文化を背負った作品を減らし、日本映画文化のオリジナリティを失った作品を増やしていってしまう。さらに日本経済が失速している中で、洋画に押され続け2002年には日本映画のシェアは27パーセントと戦後ワーストを記録する。そして昨今、市場の縮小が目に見えている日本から離れつつあるハリウッド映画は、中国やインドの市場へ目を向けていく。すると日本の観客を意識したハリウッド映画の割合は減り、2006年には再び邦画と洋画のシェアは再び逆転する。だがこれは、ただ逆転しただけにすぎず、当然日本映画が勃興し直したわけではない。2007年のデータだが、日本のコンテンツ産業の市場規模は13兆8180億円であった。2003年が13兆2187億円だったから5年間でわずかに伸びたに過ぎない。すなわち他の産業同様、映画やドラマのコンテンツ産業も海外での消費者の獲得が急務なのである。

先述したように、映画やドラマは文化・芸術であると同時に、エンタテインメント・ビジネスとして成立させなければならない。ここ数年、香港・台湾・韓国・中国を中心にアジア発の大型映画が作られヒットするようになり、文化である映画がきちんと世界のビジネスとして成立していることを示している。それは「韓流」というブームによって韓国の文化が日本だけでなくアジア中を席巻し、とりわけ中国に伝わったことでも理解できる。特に中国では大勢のファンを獲得し「韓流スター」の人気も爆発した。今や中国のテレビCMでは韓流スターが大変な人気であり、その結果、中国からアメリカに伝わり、ハリウッド映画でも頻繁に観られるようになっている。

ハリウッドのロケーション・マネージャーであるビル・ボーリングは、2008年の10月に韓国の釜山で開催された「釜山国際映画祭」の中の「アジア・フィルム・ポリシーフォーラム」で「2006年以来、ハリウッドの世界的な収益を見るとアメリカの国内以外の割合が大きくなり、世界人口の三分の一を占めているアジアも国際的な映画制作が可能だ」と語っている。これはハリウッドが明らかに中国マーケットを意識し始めていることを意味している。すでにアメリカのファンド市場は厳しい状況であるだけに、中国、インドでファイナンシングする機会が続いている。さらに21世紀フォックスは、アジア全域を視野においたプロジェクトを発足しており、インドで製作・配給したものを中国などアジア全域に拡大させている。

すなわち、日本は自分から海外に目を向けていかないと、このままでは取り残されてしまうということだ。

こうした日本のドラマ・映画におけるコンテンツ産業の現状を見れば、国際化の取り組みは遅すぎる状況だ。しかし、日本映画産業にとって国際化はそれほど簡単でないのも事実である。それは、キネマ旬報映画総合研究所が分析しているように「日本映画界には長い歴史と伝統があり、そこから日本映画だけの独特な文化が生まれ、そこには自分たちの知識、技術に誇りをもつベテランの職人が多く存在してしまっている。そして、日本と言う地理的な環境から、外国と交流する機会が少なかった」という理由があげられている。

こうして、今の日本では、未だにお互いの文化や市場も含めた外国との相互理解が不足し、ハリウッドだけでなくアジアも含めた国際化は困難を極めている。このように相互理解が進まない中では、日本と国際化を進めた国との両方でヒットを狙おうとして、安易に内容を歩み寄ってしまうことで、文化や観客層の違いの中で両方の観客を失うことにもなりかねない。すなわち、国際化においてどんな企画でも、自国の理論を押し付けるだけでなく、受容国の市場を第一として優先することも考えることが必要となる。それは、例えばラブストーリーなどは多くの国の文化に浸透し受け入れられやすいからと、頻繁に取り上げられる企画ではあるのだが、両国の映画観客層の違いからやはり難しく、なかなか成功しないことからもうかがえる。

こうして国際化と一言で言っても、アジアの一員であり、英語圏ではない日本が、どこの国を対象として国際化の第一歩を歩みだすのが一番メリットのある方法なのかまだはっきりと見えないのが現状である。

では、多様な文化を有するアジアの市場を狙うのであるならばどのような形態で発信すべきなのだろうか? デイヴィッド・ダムロッシュは『世界文学とは何か』の第七章の中で、『地球語としての英語』の著者デイヴィッド・クリスタルを例に、彼は「英語は今や100ヶ国以上で第一言語か、たいていは第二、第三言語として使われており、実に史上はじめて真の地球語となった」と述べていることを記している。そしてそれを受けて彼も、「英語は地球各地で新しい使い方をされることで一段と豊かになる可能性を感じており、英文学はいまやナショナルであると同時にグローバルな現象であり、その言語もその主題となった素材も、内側と外側から同時に、さまざまな形で生かすことができる」と考えている。

 さらに、先述のボーリングも、「映画は普遍的な言語で、普遍的なメッセージを持っていればどこの国でも受け入れられる。良く練られたストーリーは文化を克服することができ、アジアにはドラマテックなストーリーが沢山ある」と同じアジア・フィルム・ポリシーフォーラムの中で語った。

これはデイヴィッド・ダムロッシュが『世界文学とは何か』の第七章「世界の中の英語」の中で「作品が世界文学に入っていくには、普遍的とされているテーマや価値観を体現して、地域文化的な細部を二次的ひいては無関係なものとみなせるようにする」というやり方の存在を、初期のカフカの受容も例に出しつつ示していることとも一致している。

さらに、WWスタジオ代表のマイク・ルーは「アジアからハリウッドに進出するためには、自分たちの文化商品をハリウッドに販売することももちろんだが、その国特有のストーリーを伝えることが重要だ」とボーリングと同じ2008年の10月に韓国の釜山で開催された「釜山国際映画祭」の中の「アジア・フィルム・ポリシーフォーラム」で話している。

大治朋子は『アメリカ・メディア・ウォーズ』の中で、アメリカの新聞の生き残りとして選んでいる道に「ニッチ」と「ローカル」と言うキーワードが出てくる。これはこれから新聞もマスコミでありながらも、この二つを目指す流れがあることを記している。すなわち、日本のオリジナリティが世界のドラマ・映画コンテンツの中で重要となってくるということを意味していると考えている。

これまでのことをまとめて考えると、相手の文化の理解と受容先のことを考えるならば、まずは、アジア内でも使用率の高い英語を使い、アジア独自の自国の文化を発信するという選択肢は、ドラマや映画における映像コンテンツにおいてビジネスとして成功するためにも必要となってくるのではないかと思えてならない。

すなわちこれは、今やこの他国との相互理解が不足していることをチャンスとする時期であると考える。受容国を意識することで、今や日本独自の文化を世界に正確に発信していくいいチャンスだととらえるべきだ。まさに今こそ他国、特にハリウッドが受容先である中国やインドを意識して制作したドラマ・映画の映像コンテンツを参考にしながら、日本でしか作れない作品を見つけ出し、世界に発信していくべき時期に来ていると考える。

参考文献

田中純一郎『日本映画発達史Ⅴ』中央公論社

大治朋子『アメリカ・メディア・ウォーズ』講談社現代新書

キネマ旬報映画総合研究所・編『日本映画の国際ビジネス』キネマ旬報社





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