現代における理想の新聞像について思う

 第二次世界大戦を終結させ、日本は民主主義の道を歩みだした。戦前から戦中にかけての日本では、マスメディアである新聞各社は自分たちの私欲を優先し、ジャーナリストの集団であったはずにもかかわらず政府が発表した情報を、たとえそれが誤っているとわかっていてながらも、そのまま一般市民に届けてしまった。その結果、軍部の台頭を助長させ、日本にとって、アジアにとってまた世界にとって多くの犠牲を払う結果へと導く手助けをしてしまった。このジャーナリストとしての意識の希薄化によってこの新聞各社に勤める人間たちが生み出した最悪と言っても過言ではないその結果は、誤ったジャーナリズムが人的被害を及ぼすことを物語り、真のジャーナリズムの重要性を問うている。

こうして戦後70年を経て、あの時の記憶が風化されつつある今、同じ悲劇を繰り返さないためにも民主主義の道を歩み続けてきた日本にとっては、この真のジャーナリズムは不可欠であり、決して無くしてはならないものであり、それを守るためにマスメディアで働く人間たちの意識や取り組みが重要だということを認識しなければならない。

さらに、ネットワーク社会の現代においては、ますます政府から公表される情報は、ウェブを通じ、誰もが容易に手に入れられるようになっている。だからこそ、この政府からの情報をただ伝えるだけでは決してマスメディアの仕事とは言えなくなっていることを自覚しなければならない。すなわちマスメディアはその情報をどう分析し、どう解釈し、どう掘り下げるのかという作業をしないとジャーナリズムとは言えない。そうすることで、その情報にはじめて価値が生まれ、消費者は対価を支払うようになる。

今や、マスメディアである新聞にとって、ネットワーク社会ではウェブに流れる無料の情報は、おそらく脅威であるに違いないだろう。だからこそ、この情報をブラッシュアップしていく作業をマスメディアが積み重ね、情報としての価値を生み出さなければ、ジャーナリストの仕事とはならないのだ。

アメリカでの新聞各紙は、2008年のリーマンショック以降の経営不振もあって、ネットワーク社会において、読者には「有料になって損をした」ではなく、「有料でもこれまでにない情報が得られて、むしろおトク」と感じてもらえる努力を試行錯誤の中から始めた。

また、アメリカメディア大手ニューズ・コーポレーションを率いる世界的なメディア王、ルパード・マードック氏は「未来の素晴らしいジャーナリズムとは、消費者が喜んで金を払うようなニュースや情報を提供し、そうやって消費者を引き付ける能力を持つことで成り立つものになるだろう」と質の高い情報は有料であるべきで、それを提供し消費者を満足させられるメディアだけが生き残ることができると強調している。

すなわちこれらは、マスメディアがネットワーク社会の到来でようやく、消費者の立場で情報を精査し始めたことを意味している。かつては、新聞などのマスコミは消費者が入手できない情報を与えるという、上からの立場に終始していた。しかし、インターネットの普及、パーソナルコンピューターの普及により各個人が容易にさまざまな場所からウェブを使い、自力でネット上にある無料の情報を入手できるようになり、現代におけるマスメディアとしての価値を根底から問い直された結果、マスコミはようやく消費者と同じ地平に立って情報を取り扱うようになった。言うなれば、そう取り扱わなければ、立ち行かない状況へと変化した。これにより各マスコミは、自分たちのキラー・コンテンツは何か、どんな情報を読者は「お金を出してもほしい」と思っているのかを意識するようになった。これこそジャーナリズムの原点ではなかろうかと考える。

情報は与えるものでも、与えられるものでもない。自分が、今、必要としているか否かがその情報の価値を決める。すなわち、無料だからと言って相手から押し付けられた情報にどれほどの価値があろうか? 戦中の国威発揚のための戦火の情報も同様である。国民が当時マスコミから本当に必要としていた情報とは、配給のことであったり、医薬のことであったり、探し人のことであったはずだ。こうして、与えられた無料の情報などではなく、現代の消費者にとっては、有料でも払う価値がある情報こそ必要としている。

ネットワーク社会における新聞社の制作体制の変化は、リーマンショックで経営不振に苦しんだアメリカの新聞メディアで顕著であるが、これにはアメリカの新聞社ではおよそ87%を広告収入に頼る経営体制がより一層そうさせた。リーマンショック後の不景気により広告収入が極度に落ち込んだアメリカの新聞社では経営に多様性を持たすために、ウェブからの収入減を確保しようとしたため、消費者自身が必要な情報を直接取捨選択し、購入できるようにしたからだ。

アメリカとは違い、日本の新聞社では広告収入は3割程度にとどまり、7割が販売による収入で構成されているため、この流れは比較的緩やかであり日本の新聞社の経営はアメリカに比べれば安定している。しかし、日本も今後ますますネットワーク社会に組み込まれていく中で、間違いなくウェブとの共存をしていかなければならなくなるだろう。こうして、ウェブ上では無料で誰もがニュースを閲覧でき、しかもコピーアンドペーストが容易である現在の状況において、各メディア同士での情報の共有化や各新聞社の取材体制の再構築がアメリカではすでに行われている。マスコミ同業各社でライバル関係の強い日本でも、いずれそれに追随する可能性があると同時に、質の高い情報に対しては無料では獲

得できないという、情報の重要性をどうやって消費者に考えさせていくのかが、これからの日本では特に重要な議題となる。その場合、消費者にとって有益な情報とは、アメリカの新聞社を参考にする限り、よりパーソナルなものであり、消費者の生活に直接関係する情報となるのである。

2009年以降にアメリカではよく耳にするようになった「フリーミアム」という言葉がある。フリーミアムとは「ただでサービスを提供し、それにより口コミや紹介の輪などで、多数の顧客を確保する。そのうえで付加価値をつけた、より上級なサービスを有料で提供する」という意味で、SNSなどを通した無料のサービスの宣伝効果により人を集めその価値を確認してもらったうえで「有料ならもっといいものを提供します」と売り込んでいく呼称のことだ。これを各メディアが実践している。

さらに、アメリカのニュース産業研究家のケン・ドーンは「ニッチ」という言葉を使い「隙間産業的に他のどこにもないサービスを提供すれば、顧客は必ずお金を払う」と言っている。例えば株価などの経済指標などが良い例だ。すなわち、これらはいかに消費者を知るかということにかかっているということであり、各消費者からすれば、より各地域の消費者の生活に寄り添った情報にこそ、他にはない付加価値の高いものとなる。

こうした場合、マスコミ新聞各社がどこでも手に入る情報ではなく、ローカル紙(東京新聞や中日新聞、北海道新聞や琉球新報など)が大手マスコミにはないニッチな情報を発信することにより、視聴者を獲得することが主流となっていく。現在の日本では大手マスコミ新聞社が戦中に作った販売網を利用し、大手新聞社の全国紙が配達され、各地でローカル新聞を圧倒している。その全国紙の中には地方面がありローカルニュースもフォローされてはいるが、今後ネットワーク社会が進展し、ウェブで一般的なニュースを閲覧する習慣がつけば、より多くのローカル情報の掲載が可能な、消費者の生活に近いローカル紙の必要性が一段と増し、消費者の為にそれにとってかわるべきが、新聞の理想と言えるかもしれない。

そのローカルな情報とは、市民社会により必要な情報を意味し、生活の質に関わる問題にフォーカスをあてたものだ。例えば、地元の議会の動向や国政、地方議員問わず地元政治家の発言のファクトチェック、地元の学校の情報、自治会の動きや地元経済から訃報までがカバーされる。日常生活の中において、これらすべての情報に価値が潜んでいるのだ。

こうして、ネットワーク社会において大手新聞では注目しない、しかし住んでいる人にとっては死活問題であり、さまざまな地域の問題がどのように解決されているのかをつぶさにチェックできるローカルジャーナリズムに、価値が出てくることは間違いない。さらに、各メディアはこれらの情報をそれぞれのネットワークでつなげ、より大きな視点で社会問題を考える動きも容易に起こるようにするべきである。ローカルな問題こそ、他の地方でも同様に起こっている可能性が多々あり、行政どうしや地域住民同士の連携が皆無に近い縦割り構造の日本において、各ローカルメディアはこうしたローカルの詳細な情報にも連携を強めることで、さらに価値を持たせることができるようになる。

よって、ローカルの情報をどのように発信していくのかは、これからマスコミにとって重要な課題となる。全国規模の情報は、大手ニュースサイトやSNSなどですぐに手に入り、事実を知るだけで良ければウェブを通じたものである程度カバーできる。ネットワーク社会によって一般的な情報はこうして自由に手に入りつつある中、自分自身の暮らしをどの世に考えるかといった視点は、ローカルの情報にこそ意味がある。ローカルになればなるほどニュースはターゲットがより明確になり、広告においても価値が出てくるのも必然である。

さらに、ローカルのメディアが発達していると、「デジタル・バイド」と呼ばれる都市部との情報格差が拡大することを防ぐ手立てともなる。また、ローカルメディアによって実際に地域のニュースが細かく取材されなくなると、地方選挙などは当然大手マスコミでは話題にならない。その結果、新人の候補者などが当選しづらくなるなどの弊害が生まれ、一度権力の座についた既得権益者が圧倒的有利になり、地元の人々の地域の政治に関する好奇心関心が薄れていく。こうしてジャーナリズムが失われていく事の弊害を考えると、ローカルメディアの発展はこれから、ますます重要な位置を占めていく事となる。

では、より消費者との距離が近いローカル紙だけに付加価値が高まり、既存の大手新聞マスコミがアメリカのようにローカライズされていくべきかは、甚だ疑問である。なぜなら、日本はアメリカのような州単位による行政ではなく、一国単位での行政が行われているからだ。この結果、政府や大企業はもちろん、農協をはじめとする組合、裁判所、病院、マスメディアなど、あらゆる権力の乱用に光を当て続け、調査報道を深部にまで行うには大手マスメディアの力を必要とせざるをえないだろう。

こうして二極化したローカル紙と大手マスメディアがいかに共存していけるかが、これからの時代の理想の新聞のあり方だと考える。

さらに、ここで重要なのは、マスメディアも権力の乱用を炙り出される対象であることだ。ここで、各マスメディアが企業の保身のために政界、財界と結びつき、表現の自由の行使ができなくなるのであるならば、そこには大手マスメディアのジャーナリズムとしての存在価値は消えることとなる。

アメリカでのイラク戦争時に行われた、米国メディアによる戦争開始に大義があるかのような政府からの情報が、全く精査されずに報道されてしまったように、現代の日本でも戦前、戦中と同じ結果を招く恐れは、常に付きまとっている。

民主主義において真のジャーナリズムは切っても切れないものであるから、だからこそメディアの重要性はますます増していくはずだ。市民社会をより良く機能させるためにも、これからも新しい視点や情報をどのように発信していくか考えなくてならなない。同時にそうした細やかな情報にたいして、消費者である市民も対価であるお金をどのように支払い、メディアを継続させていくかを考えていかなければならない。すなわち情報の価値をどのように認識するかが問われ、情報が無料だという発想では、いつしか平凡で当り障りのない情報しか流布しなくなることを心に留めておく必要がある。

今後日本でも、メディアの再編の動きはますます活発化していくに違いない。そして消費者に対してどのように情報を届けるかという、消費者第一の視点を基に、ジャーナリズムにおける「エコ・システム(生態系)」の多様化がさらに加速するはずだ。

しかし、いずれにせよメディアに関わりジャーナリズムを全うしていくならば、どんな状況下でも自分の私欲よりも常に徹底した権力や公的機関のチェック、監視機能を行うことを念頭に、その理想を追い続けるジャーナリストであり続けなければならない。

こうした人間によって制作され続ける新聞こそ、まさに理想の新聞像というに相応しい。



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