「世界文学とは何か?」で文化、文学について考えた。

  

 現代における世界文学とは、かつてのように容易に想像できるような、多様な地域で、多様な言語によって書かれている文学だけのことではなくなっている。また、かつてゲーテが国民文学と対比し、世界文学という理念を考えた時のように、普遍的なものでもない。翻訳を通して、異なる文化圏、言語圏に入り、世界中に移動していくときに新しい生命を授けられていく文学のことである。この事実を以下の三つの考え方に添って説明していく。

「流通」

世界文学全集とは一体何を根拠に全集と呼ばれているのだろうか。これほど世界各国で多くの文学が誕生している昨今、把握しがたいほどの無数の作品からどれが世界文学に呼ばれるに値し、正典に選ばれるべきものなのか、誰も明確には答えられないだろう。これが、ダムロッシュが言うところの世界文学とは、流通や読みのモードであるところの所以にほかならない。

何を隠そう20世紀の後半に至るまでは「限りある時間を、自分の言語で書かれた作品や自分に近しい伝統から生まれた作品に注ぎ込むことができるのに、どうして文化的にも、言語的にも隔たっている文学を読む必然性があるというのか?」という問いに対する答えを見つけられず、欧米文学が世界文学とイコールであった。そして、他文化の文学から英語への翻訳は、英語文学から多言語への翻訳の数と比べるとほとんどされてこなかった。しかし、こうしたNATO文学と揶揄されるような代物だけでは、今や世界文学と呼ばれるには相応しくなく、1990年代以降、情勢は大きく変わりつつある。もちろんアジア、とりわけ中国文学、さらにアフリカ文学の中にも、グローバリゼーションの存在感が増大している現代では、世界文学と呼ぶにたりうる作品があることは必然だ。これらの国々については言語文化の大きな隔たりによって、受け入れ国がもつその外国文化のイメージと合致しない場合、困難に直面することもあるが、そもそもの世界文学の目的とは、文化的差異との出会いを通じて読者の視野を広げることにある。かつて世界文学と呼ばれたカノン(=正典)には決して含まれなかった女性作家についても同様のことが言える。こうして、馴染のない作品を鑑賞することや、当時のベストセラーや学校で教えられる古典作品にとどまらず自分の世界を広げていく事こそ、世界文学へのアプローチなのだ。

メソポタミアで最古の文学で、西洋とアジアの文化が一体化しているころの「ギルガメッシュ叙事詩」を例にとると、この書かれて2000年以上読まれてこなかった文学が、楔形文字の書きつけられた石板が発見されることによって、世界文学として電信線で伝達されていくという文学の流通の仕方がまさにそれである。そしてその先、それが聖書や神話などを筆頭に受容される国の時代・社会・文化・伝統・ニーズによって、解釈の違いがそこに存在することこそが、世界文学の読みのモードとなるのである。また、アステカ王国を占領したスペインの宣教師たちがキリスト教の教義を現地の民に教え込むために、実は彼らはメソアメリカの神・文化に精通する必要性から現地の詩を研究していて、その結果、「アステカ文化は押し付けられたスペイン文化によって即座に消滅させられたわけではなく、実は上手く融合していっていた」という今までとは異なった事実を、現地の民の詩を解釈することによって我々が知ることになったという例においても、同じことを意味している。こうして欧米による都合のいい解釈しか存在しない偏った世界文学では、もう、現代における世界文学とは何かと言う問いには答えられない。

こうして流通、翻訳されてこそ、世界文学の意義が見いだされていくこととなるのだ。

「翻訳」

 文学を読む上で原語至上主義というものがある。翻訳してしまうとその作品を本当に理解することなどできないという主張だ。しかし、その場合、世界中の文学を共有するには限界がある。21世紀において、原語至上主義ではすべての世界文学など読めるはずもない。それならば、翻訳の理想化は、神秘的な鏡映で何とか原作を丸ごと翻訳に持ち込むことはできないかと考えるのだが、これもユートピアに過ぎず、その訳文は原文の特性を忠実に伝えようとするあまり、読むに堪えるものではなくなってしまう。

こうして、我々は読むに堪えうる翻訳によって世界文学を知ることとなる。翻訳とは常に原テクストをめぐる解釈のことである。必然的に、原色の色褪せた複製ではなく、その発展的な変形になる。翻訳者は原作を公正に扱うという倫理的責任を負ってはいるが、その目的を達するゆえに駆使される戦略は様々という事になる。しかし、翻訳にも問題はある。どうして悪い翻訳ができてしまうのかといえば、はっきりとした誤訳(解釈とはみなその可能性が高くなるものなのだが)か、あるいは原作の美しさを伝えられない場合があるからだ。

こうして翻訳とは原作の文化的特異性を伝達すべきなのだが、そこには限界がある。それは、取り上げるテクストがどれほど素朴でも、伝達と受容の歴史がどれほど単純でも、発祥文化と受け取り手の文化の間の込み入った関係を受ける影響が少なくないからだ。例えば古代エジプトの詩を翻訳するにあたり、いずれも文法的に正しく機能しているにもかかわらず、全く違う解釈が生まれてしまうということなどが起こりうる。だが、これをどちらかに決める必然性はあるのだろうか。最良の翻訳とは、選択を開いたままにし、その時の好みでどちらの場合でも状況を思い描けるものだ。すなわち、1つの詩ですら批評的な「解釈の射程」を持ちうるのと同じように、いくつもの個性的な名訳が1つの時代に1つの作品に対して生まれることもありうるということだ。すなわち、世界文学とはその受容される時代や国、言語、文化の違いで解釈が大きく変化していくものとなるのだ。

さらに、世界文学の古典として不変の座を獲得している作品とは、文学風景の地殻構造の変化を切り抜け、作品の解釈と共に翻訳も変わっていくものだ。翻訳がすぐに古びてしまうのはよくあることで、文化に対する文学観が変わると、ある時代では一番良い翻訳もすぐに時代遅れになる。原テクストのトーンや価値観を全く再現できなくなるし、翻訳としての役割も訳が生み出された文化が発展する中で、十分に果たせなくなるからだ。例えば古典文学を、オリジナルで読むのではないならば、古い翻訳のまま読むことに固執する必要はないということだ。

そして、時代によって解釈も変わっていく。すなわち翻訳はその時代に合う翻訳が必然である。自国の古典文学をそれが書かれた当時の原文で読む人はいても、たとえば、『神曲』の内容を知りたいと考える他言語を使用している人たちが、原語を解読できないからといって、わざわざ古い翻訳で読んだりしないという事もそれを物語っている。こうして古典作品が新たに翻訳されていくことで現代の世界文学の一角になりうることもある。

現代は、翻訳の時代であると同時に、再翻訳の時世でもあり、翻訳は新しい翻訳基準や新しい作品解釈に適応していくのだ。カフカを例に挙げると難解・不条理・世界中の孤独といった扱いをずっとされていたが、現代では次第に、プラハというローカルの色が濃いと考えられ、新解釈されるに至っている。

こうして、世界文学は絶えず更新される。原文を受け入れる国の時代、文化、伝統、ニーズなど様々なアプローチによる翻訳が文学を豊かにしていく事こそ、現代における世界文学と呼ぶのにふさわしいのだ。

「生産」

 グローバル化している現代において、世界文学もそうなっていく。それは、世界文学はグローバル世代と対話をするために、翻訳によって読者と繋がっていくということであり、翻訳によって世代を超えた人たちとも文化も超えて対話することが可能だということだ。しかし、作品を転生させる翻訳の功罪というものが存在する。翻訳がテクストを変身させ、さらに流通が加工を施していくのだ。それは、経済の指標に乗らざるを得ない現代では、仕方のないことだ。これは、グアテマラの先住民が置かれた状況を世界に知らしめたリゴベルタ・メンチュウの著書とその英語版の内容がかなり違っていることからもうかがえる。すなわちこのことは、彼女の物語が原著でも、また英語版でも、書かれていることが事実か事実でないかが重要なのではない、という事を意味している。彼女の語り言葉を一冊の文学に昇華させたブルゴスとの共同作業でもたらされた内容こそが、彼女訴えたかったことそのものとなって世界に伝わり、その立場を決定づけるに至った。このことこそが最重要だということだ。

また、様々な形で受容先の社会への同化を目指す翻訳の存在も否定できない。イギリスの作家ウッドハウスは、同じ英語を使うアメリカとイギリスでも同じ受容のされ方をしないことを意識し、アメリカのことについての書物にもかかわらずイギリスという受容先を意識して書き、こうした文化に対する複眼的視野を持ち合わせた彼は国際的成功を収める。さらには、あらゆる読者がどこからでもどんな読み方でも対応できるようにと考えて多岐にわたる言語を使い書かれ、世界文学の仲間入りをしたミロラド・パヴィチによる「ハザール辞典」なども生まれる。これらは、受容相手をいかに意識して書くかということの必要性がこれから世界文学にとって意識されるべき事柄の一つとなっていくことを意味している。

つまり、世界文学というものは、自分とは異なる時間と空間の要素に触れることを意識しつつ、その効力も書物が祖国から遠ざかるにつれて変化することを覚えておくことが必要となっている。

こうして今、従来の世界文学のカノン(正典)以外の分野も流通、翻訳により世界的な広がりを見せている。かつての欧米文学中心の世界文学とは、別の世界文学の見通しを示した。こうしてダムロッシュは、世界文学にとって自己中心的な世界機構と徹底的に脱中心的な世界機構の両方を円の中心とした楕円のアプローチが必要だと説いている。すなわち、作品の起点文化に加え、受け入れ国の文化の価値観とニーズが絶えずかかわっているという事である。ようするに、原文と受容国との間に起こる相互の解釈の違いを必然として受け入れ、両者間の相互の文化理解を行うことこそが重要なのだということである。



0コメント

  • 1000 / 1000