映画「羅生門」について思う

  

 1950年日本で公開された黒澤明監督の「羅生門」は、それまでのダイナミズムで観せる黒澤映画と違い観客の評判は思わしくなかった。特に、出演者のグレードやスタッフがかつての黒澤映画と大きく異なっていないことを考えると、内容自体が受け入れられなかったとしか言いようがない。映画完成試写での制作者サイドの感想から見ても、映画評論家の評論にしても散々で、「良くわからない」というのが本音であり、一般向けする映画でないことは明白であり、興行的な失敗は予想されていた。

 しかし、1951年にイタリアのヴェネツィア映画祭で金獅子賞を獲得すると、日本国内の世論は大きく変り始め、さらにヨーロッパ文化へ畏敬の念を抱くアメリカのアカデミー賞でも外国語映画賞を受賞すると、日本文化の海外での復活だと称賛される。この日本人の、自分たちで評価できなかったものが、外国で評価されると途端に掌を返すこの態度は、敗戦後のこの時期にも現在の日本人同様見うけられる。 同時に、同じように称えられる湯川秀樹や古橋広之進は、日本人全てが賞賛すべきに値する成果をもって外国に受け入れられたという事実があるが、この「羅生門」の場合、日本では受けなかったものが海外で受け入れられるというは逆の成果であり、意味合いが大きく違う。この態度は戦後70年経ったいまも、クールジャパンという名の下、外国人によって日本の良さを知らされるという形で引き継がれているのは、日本人の自意識の低さを象徴している。

そこで、日本人の心には届かなかった映画「羅生門」の、何が外国人の心には響き、それが評価された理由について考察し、見解を示したいと思う。

 「羅生門」が外国で受け入れられた理由は、大きく二つに分けられると考える。

 第一に、終戦後5年という、まだ海外で日本という国の文化や歴史がほとんど知られていなかったことが、大きな理由の一つなのは間違いないようだ。ただし、その根底にあるのは北野圭介の記した「日本映画はアメリカでどのように見られてきたのか」に示されているように東洋のエキゾチズムが西洋に受けただとか、西洋人の優越による“情け”だとか、単に東洋と西洋という単純な分類ではないと考える。映像に映し出される侍を始めとして、刀や着物、眉を沿った女に坊主、そして崩れかかった大きな古代建築様式の門(平安京の羅城門がモデル)など、いまだかつて西洋では観たことのない文化が映画の中に広がり、単純に新鮮かつ、それが斬新であったということに違いない。それは翌年のアカデミー賞でも、受賞は逃したもののモノクロの美術監督賞と装置賞の二部門でこの「羅生門」がノミネートされていることからもうかがえる。当然、当時の日本人にとってこれらはすべてなじみ深いものであり、改めて映画の中で注意深く見るものではないことは言うまでもない。だからこそかもしれないが、この映画がヴェネツィア映画祭に参加される機会を得たのは、日本人が自信をもって薦めたからではもちろんない。 1人のイタリア人女性の強い推薦の下で出品が決まり、海外の映画評論家の目に留まることとなったという事実は、日本人と外国人のこの映画の見方の違いを浮き彫りにしている。

この映画は監督である黒澤によって 無声映画を意識して作られている。すなわち、この頃の邦画は当然ダイアログでストーリーを語っていく事が主流となっていた。しかし、黒澤はあえて、無声映画を意識し、ダイアログを最大限削り落としていった。これは普段の黒澤映画の台本が原稿250枚程度の分量だったのが、この「羅生門」の台本では150枚程度の原稿しかなかったことからもうかがえる。すなわち、日本人にとってはわかりづらい映画となり、日本を知らない外国人にとっては、音声や字幕に邪魔されることなく映像に集中できた映画となったに違いない。すなわち視覚に直接訴えられる形で日本文化を語られたのである。これはまさに、外国人に未知である日本の中世の世界にどっぷり自分の身を委ねられる機会を与えたと考えられる。

 未知のものを観た時の興奮は抑えられるものではない。さらにその映画全編通して流れる“ボレロ”を基調として作曲された彼らにとっては聞きなれた西洋調の音楽も、日本と言う東洋の端にある国の未知の文化と融合させられ、その敷居を低くしたに違いない。それは今までの時代劇ファンの常識をはるかに超えた音楽であり、排他的要素の強い日本人にとって容易に時代劇音楽として受け入れられなかったと考えてもおかしくない。

 こうして、日本の文化がまだ海外に知られていなかったという時代背景と、それが無声映画を意識しなるべく映像に物語を語らせる手法により、外交にとって“未知の文化”がダイアログでなく映像で伝わりやすいと言う事実が、この映画が海外で“芸術的である”という評価をえた第一の要因だと考える。

 そして、第二にストーリーの斬新さが功を奏している。その斬新さとは、複数の登場人物の視点から物語が語られるという点だ。今までは一人の登場人物の視線で語られていた映画ばかりだったのに、この映画では三人による、それも、それぞれ食い違う内容の語り口で物語が構成されている。このことが、日本での“難しい映画”という評価へと繋がっていく一方で、この脚本の斬新さが海外に受け入れられた。この三者三様で食い違う話で構成されるストーリーの展開のさせ方は、後に 羅生門メソッドや羅生門エフェクトなど、外国では映画の学術用語として使われるほど斬新だったのである。

アカデミー賞外国語映画賞は協会メンバー1800名の投票によって決められるものではなく、最初の12本の候補作から4本に絞り込まれ、それらから協会理事会の24人の理事によって決められる。すなわち映画表現に長けている人間たちによって選ばれる賞である。また、ヴェネツィア映画祭も、映画表現に長けている人たちによって選ばれる。すなわち、単純に内容一辺倒になりがちな分かりやすいか否かという一般人の視点からはほど遠い、専門的となる映画的、表現的技術が評価対象となったことも大きい。

黒澤は「羅生門」の制作以前の「素晴らしき日曜日」や「野良犬」などでは、ハリウッドの人工的できらびやかな映像と対比されるイタリア映画の「ネオ・レアリズモ(イタリアン・リアリズム)」の影響を見て取れる。暗い結末で終わることの多いイタリア映画は少ない制作費で高名な俳優も出演せず、時には素人を使いドキュメンタリー映画に近い手法で撮られていて、撮影機材や国際的スターを欠いた日本映画界は学ぶ部分が多くあった。それがこの「羅生門」で花開いた形となる。

しかし、それでも、黒澤はこの三つの食い違う映像の示す、ニヒリズム、誰も信じられないという人間不信では終わらせず、もう1つ話をつけて、ヒューマニズムに落ちを求めたのは、客を意識してのことだと考えざるを得ないが、日本人にはそれまでも不可解に、または、中途半端に観えたに違いない。黒澤はこれを「あの場合は(ラストが)飛躍しておりますよ。技巧的に無理にとってつけてあすこはずいぶん無理しているのだけれども、ああならないと締め括りがつかないのでね」という言葉に残している。すなわち、ああしないと客を最低限納得させるような映画の終わりが迎え入れられなかったという事なのだが、それでも日本人には受け入れられなかった。しかしそのニヒリズムとヒューマニズムを同居させたところを、むしろ映画専門家たちは評価した。何せ、そのドラマ構成自体が斬新という思考であったのだからだ。 その後、「羅生門」は1954年イタリアのフェデリコ・フェリーニに「道」を作らせ、彼をネオ・レアリズモから離れさせたり、同じようにスウェーデンのイングマール・ベルイマンに影響を与えて「処女の泉」を生み出し、両作品ともに、アメリカアカデミー賞外国語映画賞を受賞する1つの要因ともなった。 また、この羅生門効果を使ってミュージカル映画で成功したのが、1957年のジーン・ケリー主演の「魅惑の巴里」。1964年には忠実にリメイクしたマーティン・リット監督、ポール・ニューマン、ローレンス・ハーヴェイ、クレア・ブルーム、エドワード・G・ロビンソン出演の「暴行」などからも、この羅生門の斬新だった構成方法の影響を知ることができる。

黒澤にとってはこの実験的ともいえる台本構成が、世界では“斬新”という評価を受けた。かつ、この映画で日本映画を一番軽蔑していたのは日本人と揶揄され、厳しい評価を下していた日本の映画評論家たちは辛酸を舐める結果となった。

こうした2つの要因が「羅生門」が世界的に評価された理由だと考察できる。これらは決して、制作者サイドによって意識的に生み出されたものの結果ではない。しかし、黒澤明監督の日々の人間観察や哲学的考察、さらに好奇心があったからこそを、偶発的にも生み出されたものであることは間違いない。そして、それを当時の日本人が評価できなかった背景にも頷ける。なぜなら映画に娯楽を求め、文化的要素など必要のなかった当時では、この作品に評価のしようがなかっただろうからだ。この「羅生門」が当時、日本で興行を成功させるようにリメイクされたならば、台本構成上ダイアログを増やし、さらにサスペンス色を強めるなど内容が伝わりやすいように構成される必然性があっただろう。これはおそらく現代でリメイクされるにも同様の修正点となる。しかし、それでは黒澤明監督の本意とは程遠いものであり、彼自身が監督を務める必然性がなくなってしまう。よって、この「羅生門」とはあの時代に、黒澤明監督だからこそ、海外で受け入れられた作品となのである。

参考文献

北野佳介「日本映画はアメリカでどのようにして観られてきたか」平凡社新書

黒澤明「蝦蟇の油 自伝のようなもの」岩波書店

浜野保樹「偽りの民主主義~GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史~」角川書店

淀川長治「淀川長治、黒澤明を語る」河出書房新社

小林信彦「黒澤明という時代」文芸春秋

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