『ビルマの竪琴』から考えるGHQ検閲について思う

今や「コンプライアンス強化」という名目の下、各テレビ局では、ドラマというフィクションの世界を扱った番組でも、表現に対して自主規制を行っている。「視聴者からの批判を未然に防ぐため」という名目で行われるこの表現の規制は、その現場にいる自分にとって、多くのソフトの差異化を消失させ、凡庸な作品を増産させる悪しき習慣だと常々考えている。

表現をつかさどる制作者において、特に演出サイドにとっては、この表現の規制ほど苦しいものはない。検閲官という少数の人間によって規制された内容に対して、制作者側は、その検閲側が危惧した内容を全く意図せずに表現しているにもかかわらず、それを納得せざるをえないという場合が多々ありえたに違いない。特にその場合は、その作品を世に開示するにあたり苦渋の決断を強いられ、忸怩たる思いであったことは想像に難くない。

 教材の「天皇と接吻」を読むと、表現者にとって昭和20年から27年は言論弾圧の暗黒時代と言ってもいい。さらに山本武利の『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』によれば、GHQは新聞、放送、出版はすべて検閲し、民間人の手紙も封を切って中を覗き見し、時に横取りしたと言われ、その数2億通。電話の盗聴は90万回。さらに7000タイトル以上の本が焼かれたという。こうしたなかでGHQの意図するように「アジアで日本兵が悪いことをした」という考えが広がり「侵略戦争」だったという真実を、日本人たちが受け入れるようになったと考えられ、この一翼を映画も担わされていたのである。

 この『ビルマの竪琴』はそもそも原作自体がGHQの検閲時代に出版されており、物議をかもした作品である。この原作がGHQの検閲を通過し出版された後の映画化にあたっても、再度GHQの検閲にあっていたことに驚かされる。前出の教材である『天皇と接吻』によると、映画『ビルマの竪琴』の企画は1950年の初頭に田坂具隆監督、沢村勉脚本により脚本の形で提出されたが、検閲官によって「英国とインドの兵隊(の処理に気を付けるように)」と書き込みがされ、おそらくビルマが舞台になっていたことと、連合国軍の捕虜になった日本兵という題材等の問題で映画化が見送られた」という。

これは、そもそも「大東亜戦争」を素材とした映画を制作することの難しさの表れであると考えられる。

結局、このベストセラー小説が映画化されるのは、占領終了後の1956年であるが、この原作においても、占領終了後に制作された市川崑監督、和田夏十脚本による『ビルマの竪琴』においても、英国とインドの兵隊をどのように描くことが問題だったのかわからない。

確かに、映画の中では連合国側が終戦後間もない時期にビルマの三角山に立てこもり降伏をしない日本人兵士に攻撃を行い、殲滅させるという描写が出てくる。しかし、これはある一人の日本人兵士が立てこもっている日本人兵士たちを降伏するように説得に行ったが彼らはそれを拒否し玉砕を選ぶという部隊の話であり、英国兵士、インド兵士の描き方の問題であるとはどこからも観て取れない。すなわちこれはそもそもGHQが恐れていた、日本人の生よりも死に執着し殲滅をも辞さないその姿勢を改めさせるための要素が強いのではないかと考えられる。

また、この作品は宗教に関しても検閲にあった。

『天皇と接吻』には、「『ビルマの竪琴』の主人公は仏教の僧侶になったビルマの元日本兵であるが、検閲官は収容所にいるかつての戦友たちに、僧の姿で現れ主人公が別れを告げる場面と、戦友たちが現地の老女に彼の後をつけるように頼む場面を問題にした」と書かれている。この部分からはこの時代の宗教を扱うことの困難さもうかがえる。

これには、僧侶が竪琴で楽曲を奏でるのは破戒行為であり、そもそもビルマの民族楽器である竪琴でイギリスの楽曲の和音を奏でることはできないという事実に基づいた結果、宗教を冒涜させないためのものと考えたのではないかと思われる。さらに、ビルマの仏教では遺骨収集や墓への埋葬、その後の墓参りなどへの執着はない。ビルマ人を素朴な民として描くために、勝手に思い込まれた仏教像をビルマに押し付け、当時、ビルマにも強かった反日感情を無視していることも問題にしたのではないかと考えられる。

そもそも原作者自体が空想でビルマを描いており、モデルらしき人物はいるとは語っているものの、ほぼすべてがフィクションであったという事実からもこの作品を映画化するにあたっては、完全にフィクションになることは当然のことではあった。しかし、監督の市川崑は検閲が終わったこの時期だからこそ、おそらくきちんと当時の風景、戦争の匂いを感じる描写をきちんと描きたかったに違いない。このビルマ仏教の慣習に関して、検閲が終了していたにもかかわらず、きちんとセリフに起こしてリアリティーとの齟齬を埋めるために、作中で登場人物たちに説明させている。

さらに市川崑監督はこの作品のなかで三國連太郎演じる井上隊長にわざわざカットを割り込みバストショットにして「我々の間にはまだ、敗戦の苦労らしいものはまだなにも始まっちゃいないんだ」と言わせている。すなわちこのセリフは、シーン替わり後の突然始まる違和感と共に印象に残るカット割りの中で言われており、監督は、戦中の苦労より、敗戦後の苦労を強く語っていることとなる。これはまさに表現者の苦しみをまさに味わい、その苦しみを伝えたかったに違いないコンテの構成だと考える。そして、表現者として、この一言に思いを込めた意味を深く感じとり、こころより賞賛する。

『ビルマの竪琴』の原作者の竹山道雄は、平川祐弘の『竹山道雄と昭和の時代』によると検閲官に対する記述をこう述べている。「とうじ、検閲実務に従事した要因はおおむね日本人で、占領軍の指示に従いチェックしていた。-(中略)-その検閲業務をした人でのちに革新自治体の主張、大会社役員、香西弁護士、著名ジャーナリスト、大学教授などになった人々もいた。がしごとの性質を恥じた成果、検閲業務に従事した旨後年率直に打ち明けた人は少ない。―(中略)-占領軍の検閲の非を問わないという禁忌が、連合国側によって流された歴史解釈を正当とする風潮を生むにいたる。」

この事実を知れば、小説にしろ、映画にしろ、この検閲体制の事実を知っていた制作者側は、どうして日本人に検閲された通りに修正しないと表現できないのかという、多くの不条理な思いを抱いていたに違いない。これこそ日本人による自主規制に他ならない部分があったに違いないと考えざるをえない。

さらに竹山は「全文GHQによって検閲を受けました。その結果、兵隊になって、負けて、逃げて、死んでと日本軍を惨めに書いている。検閲によっておかしな読み物になってしまった。しかし検閲が廃止された後は、日本兵は大いに尊敬された」と語っている。これは検閲している最中のGHQの施策は、一時期は功を奏していたとは考えられるが、俯瞰的に見たら正当性があったかどうかは疑問を持たざるを得ない。これと同じことが映画文化でも言えることは間違いない。

GHQのプロパガンダとして利用された映画も、戦後の混乱期におけるGHQの推し進める民主化への新制度の定着などには上手く利用できたと考えられるが、日本人の奥底にまで届いたかどうかは疑問である。むしろ検閲終了後の日本を見る限り、人間を信じ、表現を信じて様々な表現を取り入れ取捨選択させた方が、よほどプロパガンダとしては成功したのではないかと考える。それこそ後世にまで影響のあった施策となったに違いない。

 

参考文献

平野共余子『天皇と接吻~アメリカ占領下の日本映画の検閲』草思社

平川祐弘『竹山道雄と昭和の時代』

山本武利『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』






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