「戦争と新聞」における社論の転換



誰のためのマスメディアだったのか? 人の命でさえ操れると言われているマスメディアである新聞媒体で、戦争前夜から戦時中にかけて一体何が行われていたのか? 欽定憲法下で日清戦争、日露戦争と勝利をおさめ、第一次世界大戦後の世界恐慌に国民が苦しむ中、軍部が台頭していくという時代ではあったが、その時代のマスメディアの無責任とも言うべき行動を検証し、日本を戦争に向かわせた理由を考察する。

戦時中に顧客数300万を超える媒体となった朝日新聞がこれほどまでに軍部と蜜月であり、それゆえに異論をとらえられなかったとういう事実に愕然とする。日中・太平洋戦争最中、情報が枯渇していた国民にたいして、そんな状況下の新聞が一般紙として堂々販売されていたことが異様である。もしこの新聞が、購読者にとって官報としての性質を持ち得るものであったならば、軍部の言うがまま、また大本営からの発表をそのまま伝える媒体であったとしても、購読者が受ける意味合いも、また彼らの記事による戦争への見方も全く違ったであろう。一般紙であれば、そこには第三者が現場で取材してきているものが存在しているだろうという、購読者の期待があるからだ。だからこそ新聞に価値を見いだし、購読者となるのである。すなわち問題は、一般新聞紙として事実と異なっていることを知りながらも、大本営からの発表をそのまま精査することなく垂れ流し、さらにはその裏に隠された戦争現場での真実を知っていたにもかかわらず、伝えようとする努力を怠ったことにある。

この事実にたいして、主筆であった緒方竹虎が「新聞社が団結して戦っていたら太平洋戦争は防ぎえたのではないだろうか?」と語り、編集長たちも慙愧に絶えないようなことを口にしてはいるが、おそらく戦時中はそんなことを思いもしなかったに違いなく、終戦後だからそう語ったに相違ない。なぜなら朝日新聞にも数名ほどいた「事実を曲げて書くくらいなら、ましてや嘘を書くくらいなら職を辞する」そんな気概の人間とは彼らは違っていたからだ。このマスメディアで働く人間としての倫理観・正義感の欠如は遺憾である。こうして朝日新聞では戦時中でも4000人もの社員を抱えて存続していった。

彼らはおそらく時代に甘え、上司に甘え、購読者に甘え、「なぜ新聞を発行し、読者に届けるのか?」という本当の意味を結局のところ考えなくなってしまったに違いない。なぜならマスに対するメディアであるにもかかわらず、戦争開始前夜から軍部と繋がり、戦火が拡大していく中で軍部との蜜月度合いを深めていくにつれて規模を拡大していった“新聞社”という大所帯を維持することが、彼らにとって第一義となってしまっていたからだ。そうなってしまった以上、購読者へ目線が向くはずはない。マスのためのメディアではなくなり、新聞における“真実”への責任を放棄してしまったにほかならない。

1931年9月18日に、新聞がそうなる道をたどる1つの契機となった中国の奉天郊外・柳条湖で南満州鉄道が爆破されるという事件が起きる。世に言う満州事変である。国民はこの満州事変までは、一般紙である朝日新聞の立ち位置をきちんと把握していたはずだ。日露戦争以降、与謝野晶子が「明星」に掲載した「君死にたまふことなかれ」などと同様、朝日新聞はまだ言論統制が厳しくなかった時代には、きちんと軍拡に関する反対の方針の下で戦争反対の社説を展開していた。すなわち購読者は朝日新聞の論調を知っており、それに期待し、そこで購読者との信頼関係ができていたはずだ。

それがこの満州事変では当然現地の記者たち(奉天通信局長武内文彬を中心に)はもとより、政府関係者も関東軍の将校すら「事件の責めは関東軍当局にある」とわかっていたにもかかわらず、武内ら現地から送られてくる記事の内容はそれとは逆のものとなっていた。反軍拡を主張し、軍部から煙たがられていた朝日新聞だったにもかかわらず、この事実は「現場の記者が現地の関東軍と結びつき、現場では容易に軍部の情報得ていた」という事実が想像できる一つの例だが、それだけでは終わらなかった。それは、9月20日の東京朝日新聞の社説ですらも「すでに報道にあるが如く、事件は極めて簡単明瞭である。暴戻なる支那側軍隊の一部が満鉄線路のぶつ壊しをやつたから、日本軍が敢然として起ち、自衛権を発動させたといふまでである」と論じてしまうところにまで行き付いてしまう。

こうして、この満州事変以降、朝日新聞は自ら事実を掘り下げることを止め、反旗を翻すことなく報道機関が本来の役割を放棄していしまったことで、ますます軍部の暴走を許すこととなってしまう。新聞社が軍部と繋がっていくことで、戦争現場の取材環境を安直に整えてもらい、何とか競争他社を出し抜けるようなスクープの獲得をめざしていく。さらに国内で息詰まる販売網を植民地や満州、さらには南方の占領地などで拡大し、内容で勝負するのではなく、占領地での購読者を安易に増やし経営の手を広げようと軍部との協調関係を密に築いていく事は必須であったようだ。こうして一般紙だった朝日新聞は、購読者目線とは程遠いものとなっていく。その結果、あらぬ事実を軍部の意のままに掲載していくことになる。これは新聞として何の意味があったのだろうか? 事実だと信じてやまない購読者を裏切るという明らかな詐欺行為と考えざるを得ない。

さらに朝日新聞は軍部と協調し、戦意高揚を誘うが如く紙面づくりを始める。

しかし、これは軍部の要求にこたえるためのものだけではなかった。国民の普遍的であるナショナリズム(現代ですらスポーツの国際試合においてテレビで高視聴率が獲得できている事実は、まさに日本だけでなく世界各国普遍的なものなのかもしれない)に迎合していったのである。すなわち当時の日本を覆っていた国民の中国への反感に記者たちが安易に迎合したことで(後に米英と広がっていく)、さらに新聞が世論をあおり、それにより湧いた世論が新聞をさらに過激な方向へ導くという相互作用が働いていく。当時朝日新聞の編集局長だった緒方竹虎は小磯国昭の「日本人は戦争が好きだから、火ぶたを切ってしまえばついてくる」という思惑に、結果同調し、むしろそれを扇動していく事となる。

それだけではない。朝日新聞はむしろ企業として多方面で戦争協力さえするようになっていく。戦争ニュース映画の制作や全国での上映、国策協力への女性と子どもの勧誘や誘導を推し進める。これにより戦争末期になると、国民の意識誘導がますます過熱していった。これは、大本営発表が一般化し、新聞各社による特ダネ競争もなくなり、取材をすることもなく軍部の言うとおりに書くようになっていった結果である。また、一県一紙に統合されていった地方紙でもなおさら、国民の意識誘導はしやすくなっていった。この新聞の体系は占領下でGHQが同じ体制でメディアを維持していったことからも意識誘導に効果的であったことは明らかである。まさに新聞というマスメディアは崩壊してしまっていた。

こうして軍や内務省の検閲や圧迫が次第に厳しくなっていった言論統制下、事実は書けないという諦めが記者サイドを覆って言っただろうことは、想像に難くない。しかし、これはすでにこの段階で新聞社にはジャーナリストがいなくなってしまったことを意味している。こうして一般紙にもかかわらず、軍と一体化していった新聞社。従軍記者として戦場では多くの仲間が死に、ピストルを打つことすらも強要され、新聞社が持っていた飛行機は軍に提供され代わりに戦地の写真を内地にその飛行機で送ってもらう。さらには、新聞製版の技術が軍用機の設計図の拡大複写に転用できるとのことから、朝日新聞の社屋の一部が軍事工場として提供され、社員も軍需産業に立ち会わされるなど、新聞社とは言いがたい末路を歩んでいく。

まさにここで働く人間たちは、ジャーナリストとは程遠い。すなわちこうしてジャーナリストとしての意識がどんどん稀薄化していく中で、新聞は真の意味での購読者の為に作られることはなくなってしまった。マスメディアという名の下にあった新聞社は、軍と持ちつ持たれつの関係の中で堕落の一途をたどっていった。

この、一般購読者の為に作られなくなったマスメディアとは言い難い新聞によってさまざまな人権が軽く扱われる結果となったのは言うまでもない。その朝日新聞が軍と共に行った戦意を煽った行為による責任は重い。しかし、その責任の所在は経営者の公職追放にとどまり、それが解かれた後には社主として復帰させてしまうというありさまで、とても責任の所在が明らかにされたとは言い難い。憲兵などによる圧力により生命の危機により事実が書けないとするならば、仕方もない。しかし、事実を曲げたことを書くことこそ恥ずべきことと、多くのジャーナリストが個人的に辞めるという選択肢やそもそも新聞の出版を控えるという選択肢を選べたとしたら何かが変わっていたのかもしれない。すなわち単に「自分以外の人間がそうしていなかったから、自分もそうしなかった」という戦時下におけるノンポリの集合体になってしまっていたのだ。

その無責任さがこの最悪の結果をもたらした。すなわち、マスメディアで働く人間としての自覚の欠如と、さらにはメディアの人間が自分の保身に回った瞬間にそこに私欲が入り、事実を事実として見られなくなる典型的な例といえる。この新聞としての社会にたいする責任を考えない実態。そして、一切この責任を取る土壌がないという実態。この無責任からの脱却、すなわち常に報道に対する責任をとる必然こそが新聞というメディアが必要とされる十分条件なのではないだろうか。

戦場とは過酷な場所で情報が入手しづらく、軍部頼みで情報を得なければならなく戦争の報道の難しさも本書は指摘している。こうしたなか、軍部との距離を縮めざるを得ないのは致し方ない。しかし、そこでミイラ取りがミイラになるべく事実が伝えられなくなるようでは、接近する意味は皆無である。

しかしこの問題は、表現の自由が担保されている現代ですら起こりうる。巻末の章でハーバード大学のアンドルー・ゴードンは「大量破壊兵器が存在するとか、フセインとアルカイダが結びついているという証拠は一つもないのに、米国のメディアはそれが事実であるかのように報じた。満州事変での関東軍の謀略に乗せられて中国側を非難した新聞と、基本的に同じだ。国民をだまして、戦争の正当性をつくり、戦争に導いた」「報道の自由が守られている現在のアメリカでさえ、メディアは十分な役割を果たせなかった。自国の戦争を批判的に報じることは、今も決して簡単な課題ではない」と書いている。

これは満州事変以降の問題は、時代の問題ではないことを意味している。すなわち今を生きる私たちですら、この事実を深く心にとどめておかないと、同じ轍を踏むことになりかねない。

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